放棄
継承権放棄の公示は、王都を激震させた。
朝から、王宮に仕える使用人たちの気配がどこか落ち着かない。
廊下を行き交う慌ただしい足音、角を曲がるたびに途切れる押し殺した囁き声、そしてこちらを伺うような遠慮がちな視線。
重い扉の向こう側からすら伝わってくるそのざわめきに、私は静かに瞳を伏せた。
机の上には、届けられたばかりの数枚の新聞が置かれている。
『王太子、婚約者の療養に伴い王位継承辞退』
『次代国王は第二王子アレン殿下へ』
『白銀の令嬢、北方静養へ』
どの見出しも、どの記事も、表面上は事実に即した穏やかな文面を装っている。
だが、行間から滲み出る本音までは隠しきれていなかった。
そこにあるのは底知れぬ恐怖、剥き出しの警戒、そして───救いようのない安堵だ。
「災厄が、ようやく中央から消える」
王都中の人間がそう胸を撫でおろしているのだと、手に取るように分かってしまった。
私は静かに新聞を閉じた。
彼女が触れた指先から、紙面を侵食するように薄く霜が広がっていく。
「……馬鹿な方」
掠れた呟きが、冷え切った室内に零れる。
継承権放棄。
それがどれほど重大なことか、彼女には痛いほど理解できていた。
フレデリックは、王になるために生まれた人だ。
幼い頃から、そう育てられてきた。
正しく気高く、誰よりも民を愛し、国を背負うべき王として。
彼はきっと、歴史に名を残す名君になっただろう。
少なくとも、自分などより遥かにこの国にとって必要とされる人間だったはずだ。
それなのに。
その輝かしい未来を、彼は捨てた。
自分のために。
胸が軋む。
嬉しい。
苦しい。
怖い。
正反対の感情がぐちゃぐちゃに混ざり合い、肺を圧迫して息が詰まりそうだった。
「……どうして」
誰へ向けるでもない問いが、白く凍る。
どうしてそこまでできるのか。
どうして、そんな風に愛せるのか。
私には分からない。
自分は、そんな価値のある人間ではない。
愛されれば愛されるほど、近づけば近づくほど、相手を壊してしまう。
事実、彼は王位を失った。
未来も、栄光も、人生さえ。
すべて、自分が奪ってしまった。
窓の外に目を向ける。
空は重苦しい灰色の雲に覆われ、春だというのにひどく寒い。
まるで世界そのものが、主を失ったかのように静かに冬へ沈んでいくみたいだった。
その時、扉が静かに開いた。
聞き慣れた、けれど今は聞くのが辛い足音が近づく。
振り返るまでもない。
「……見たのか」
穏やかな声。
私は覚悟を決め、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、フレデリックがいた。
いつも通りの穏やかな顔。
いつも通りの凛とした声。
まるで、何も失っていないかのように。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。
「ええ」
レティシアは微笑む。
完璧な淑女の笑み。
癖のように身につけた、心の機微を隠すための仮面。
けれど、彼を誤魔化すことなどできなかった。
フレデリックは小さく眉を寄せ、私を覗き込んだ。
「怒ってる?」
「……呆れておりますの」
静かに新聞を掲げて見せる。
「王都中、大騒ぎですわよ」
「そうみたいだね」
「他人事みたいに……」
「もう、王家の人間じゃなくなるからね」
さらりとあまりに自然に言われ、私は息を呑んだ。
その言葉の重さに、今さらながら胸の芯が冷える。
本当に。
本当に彼は、全部捨ててしまったのだ。
自分のために。
フレデリックが歩み寄る。
けれど、私の三歩手前でその足は止まった。
近づきすぎれば、私の無意識な魔力が冷気となって反応して彼を傷つけてしまう。
このわずかな距離が、今の二人の限界だった。
それがたまらなく痛い。
触れたいのに。
近づきたいのに。
それすら許されない、呪われた身体。
「後悔して……いないのですか?」
問いかける声が、微かに震えた。
本当は、聞きたくなかった。
もし少しでも、その瞳に迷いがあれば。
もし少しでも、自分を恨む気持ちがあるのなら。
きっと耐えられない。
けれど、フレデリックは即答した。
「しているよ」
私の呼吸が止まる。
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打った。
やはり。
当然だ。
誰だって後悔する。
王位だ。
未来だ。
人生だ。
それを全部、自分なんかのために失ったのだから。
視界が急激に歪み、揺れる。
だが、次の瞬間。
「もっと早く、君を攫えば良かったとね」
あまりにも平然と、そんな言葉が落ちた。
私は数秒、その言葉の意味が理解できなかった。
「……は?」
「早くに無理矢理にでも君を連れて北へ行くべきだった。そうすれば、卒業式の日に君にあんな顔をさせずに済んだのに」
彼は真顔だった。
本気でそう思っているのだと、その瞳が語っていた。
馬鹿だ。
本当に、救いようがないほどに。
張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、思わず、笑いが零れた。
「っ……ふふ……」
肩が震える。
久しぶりだった。
こんなふうに、仮面ではなく心から自然に笑えたのは。
「……貴方、正気ではありませんわ」
「今さらかな?」
フレデリックが、困ったように苦笑する。
「君に惚れた時点で、だいぶ手遅れだったと思うよ」
「酷い言い草ですこと」
「事実だよ」
優しい声だった。
だからこそ、余計に胸が締め付けられる。
私はゆっくりと視線を落とした。
笑みが消え、代わりに底知れない罪悪感が込み上げてくる。
「……私は、貴方の人生を壊したのよ」
掠れた声。
震える指先を、膝の上でぎゅっと握り締める。
「王位も。未来も。全部……」
本来なら、彼は光の中を歩むべき人だった。
民に愛され、国を正しく導き、誰よりも眩しい場所に立つはずだった。
なのに今は、災厄と呼ばれる女と共に極寒の北方へ追いやられようとしている。
こんな結末が、幸福なはずがない。
けれどフレデリックは静かに首を振った。
「違う」
その否定は穏やかだったが、断固として揺るがなかった。
「君がいたから、ようやく選べたんだ」
私の瞳が揺れる。
彼は微かに、慈しむような笑みを浮かべた。
「私はずっと、王太子として生きてきた。正しくあれ。国を優先しろ。個人的な感情で動くな……とね」
王とは個人ではない。
民のために存在する機構である。
彼はずっと、そう刷り込まれて生きてきた。
「でも」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「君がこれほど苦しんでいるのにそれを見捨てて王冠を被るなんて、私には無理だった」
その言葉が、胸の奥へと深く深く沈んでいく。
苦しいほどに優しく、眩しい。
だからこそ、怖い。
どうしてこの人は、これほどまでに真っ直ぐでいられるのだろう。
「だから、君がいたから……ようやく選べたんだ。王として死ぬのではなく、一人の男、フレデリックとして生きる道を」
その瞬間、堪えきれずにぽろりと涙が零れ落ちた。
透明な雫は頬を滑る途中で薄く凍りつき、床に落ちて小さな音を立てる。
けれど。
今だけは、どうしても泣きたかった。
この世のすべてを失ってもなお、彼にこれほどまでに愛されていることが。
どうしようもなく、幸せだったから。




