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北方

王都を発つ朝。

空はすべてを拒絶するかのような重苦しい灰色の雪雲に覆われていた。

春だというのに、吐き出す息は驚くほど白い。

凛と張り詰めた冷たい空気は、まるで街全体が、私たちの旅立ちを前に静かに息を潜めているようだった。


王宮正門前。

そこに停車していたのは、一台の控えめな黒塗りの馬車だった。

豪奢な金細工の装飾もなければ、王家の威光を示す紋章もない。

かつて彼が乗っていた王太子専用の馬車ですらなかった。

それが、すべてを物語っていた。


王家はこの別れを、公にはしなかった。

盛大な歓送も、厳かな式典も、門出を祝う祝福の言葉もない。

まるで最初から、フレデリックという王太子など存在しなかったことにするかのように。

遠巻きに見守る使用人たちも、一様に沈黙したまま深々と頭を下げるだけ。


誰も近づかない。

誰も声を掛けない。

その拒絶に近い静寂を、私は痛いほど理解できていた。

怖いのだ、私が。

“白銀の令嬢”という名の災厄が。

この街を去る今ですら、周囲は私という存在を腫れ物のように恐れている。




私は静かに瞳を伏せた。

胸の奥が、氷を飲み込んだかのようにひどく冷える。

慣れたはずだった。

背中に刺さる冷ややかな視線も、向けられる恐怖も、一定の距離を保たれる孤独も。

なのに、どうしてだろう。

最後の最後になって、この孤独がこんなにも痛い。


「寒いか?」

すぐ隣から、穏やかな声がした。

フレデリックだ。

私は小さく首を振った。

「いいえ」


嘘だ。

本当は、震えるほど寒い。

けれどそれは、大気の気温のせいではなかった。

彼は私の嘘を察したように少しだけ眉を下げ、悲しげに目を細めた。

だが、彼もまたそれ以上は近づいてこなかった。


三歩。

今の私たちにとって、それが許される限界の距離。

私の魔力はまだ、感情の揺れに呼応して暴発するほど不安定だ。

少しでも気を抜けば冷気が漏れ出し、近づきすぎれば彼を傷つけてしまう。

愛しいと思えば思うほどその熱を奪い、凍らせ、壊してしまう。

それが、何よりも苦しく、自分を呪いたかった。




王宮の重厚な門が、ゆっくりと開かれる。

冷たい隙間風が吹き抜け、私の白銀の髪を乱暴に揺らした。

いよいよだ。

私はこの王都を離れる。

二度と、戻ることはないだろう。

生まれ育った場所。

すべてを奪われ、心を壊した場所。

そして───彼と出会い、彼を愛した場所。


名残惜しさを振り切るように馬車へ視線を向けた、その時だった。




「レティシアお姉様……っ!」


涙混じりの叫びが響いた。

思わず振り返る。

一生懸命な足音。

ソフィ様がこちらへ駆けてくるのが見えた。

柔らかな髪を揺らしながら必死に、今にも転びそうな足取りで。


「ソフィ様!」

後ろから、エレノアが制止する声が飛ぶ。

けれど、ソフィ様は止まらなかった。

そのまま勢いよく、私の目の前まで駆け寄ってきたのだ。


「お姉様……っ」

ぽろぽろと大きな涙の粒を零しながら、ソフィは私を見上げる。

「本当に行ってしまうのですか……?もう、会えないのですか……?」


その声は、震えていた。

私は少しだけ、目を細める。

胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように柔らかく痛んだ。

……この子は。

この子は、制御できない冷気が漏れても、周囲が私を怪物だと噂しても。

ソフィ様はずっと私を信じ、真っ直ぐに手を伸ばし続けてくれた。


「ええ」

私は静かに答えた。

白い吐息が空気に溶ける。

「けれど、永遠の別れではありませんわ」


彼女の潤んだ瞳が、不安げに揺れる。

「……本当ですか?」

「ええ」

私は微笑んだ。

壊れそうなほど、精一杯の優しさを込めて。

「手紙くらいは、書けますもの」


「でも……でもぉ……っ」

ソフィ様はもう、涙を止めることができなかった。

肩を震わせて泣きじゃくるその姿を見ているだけで、視界が滲む。

本当は抱き締めたかった。

「泣かないで」と、その頭を撫でて涙を拭ってあげたかった。

けれど、できない。


触れれば、私は彼女を凍らせてしまう。

近づけば、彼女を傷つける。

だから私は、残酷なほどの距離を保ったまま微笑み続けるしかなかった。


「……ソフィ様。泣かないで」

穏やかに、諭すように声をかける。

「貴女が泣くと、私の冬が長引いてしまいます」


その瞬間、彼女は堪えきれずに声を上げて泣いた。

「やだぁ……っ、お姉様ぁ……っ!」

無垢な泣き声。

必死に袖で涙を拭いながらそれでもなお、彼女は私に手を伸ばそうとする。

私はその、温かそうな手を見つめた。

自分には、もう二度と触れられない温度。


その時、後ろから静かな足音が近づいた。

「ソフィ様」

エレノアだった。

ストロベリーブロンドの髪を揺らしながら、彼女はゆっくりとソフィ様の肩に手を置いた。

「……レティシア様を、困らせてはいけませんよ」


その声もまた、微かに震えていた。

ソフィ様は泣きながら、それでも私から目を逸らさない。

「嫌です……行かないで……」

幼い願い。

あまりにも純粋で、だからこそ、突き刺さるように残酷だった。


私はゆっくりと、視線をエレノアへ向けた。

エレノアは静かに微笑んでいた。

いつものような、柔らかな、包み込むような笑み。

けれど、そのアクアマリンの瞳は薄く潤んでいる。

彼女もまた、私の前で泣くのを必死に耐えているのだと分かった。


「……エレノアさん」

「はい」

「ソフィ様を、お願いしますわね」


エレノアは少しだけ目を見開いた。

それから、決意を込めて静かに頷いた。

「お任せください」


短い返答。

けれど、そこには確かな覚悟があった。

エレノアは最後まで、私を拒絶しなかった。

私を怖がりながらも、私の冷気に傷つきながらも。

それでも、私に光を向け続けてくれた人。




ふと、叶わぬ想像をしてしまう。

もし私が、もっと普通の人間だったなら。

もし、私の心がこれほどまでに壊れていなかったなら。

彼女たちと、穏やかな未来を歩めたのだろうか。

一緒に笑い合ってお茶を飲み、春の庭を散策する。

そんな当たり前の幸せを、手にできたのだろうか。


けれど。

その未来は、もうどこにも存在しない。

だからせめて、彼女たちがこの先も暖かな場所で心からの笑顔でいられることを願った。


「……元気で」


ぽつりと、祈るように呟く。

ソフィ様は泣きながら何度も頷き、エレノアもまた、静かに頭を下げた。


その時、ふわりと冷たい風が吹き抜けた。

私の内側から漏れ出す冷気に反応するように、灰色の空から白い欠片が舞い落ちる。

春だというのに。

季節外れの、別れの雪。

誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。


私は空を見上げた。

静かに、すべてを覆い隠すように降る雪。

まるで世界そのものが私たちの別れを惜しみ、泣いているみたいだった。




「行こうか」


フレデリックの声が届く。

私は小さく頷いた。

そして、最後にもう一度だけ、振り返った。


泣きじゃくるソフィ様と、その肩を抱くエレノア。

愛おしい二人の姿を、永遠に忘れないよう瞳の奥へ焼き付けて。


私は静かに、馬車の中へと乗り込んだ。

扉が閉まる。


───世界が、切り離される音がした。

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