継承宣誓式
王都、大聖堂。
そこでは今、無数の祝福の鐘が鳴り響いているはずだ。
遠く離れたこの北方の地にまで、風に乗ってその荘厳な音色が届いてくるような錯覚に陥る。
今日は、第二王子アレンの継承宣誓式。
民衆は歓喜に沸き貴族たちはこぞって喝采を送り、王都全体が目も眩むような祝福の色に染まっていることだろう。
新しい時代の幕開け。
春の光。
希望の兆し。
───本来ならば。
あの場所に立つべきだったのは、フレデリックだった。
私は、馬車の窓の外をじっと見つめる。
視界の先には、どこまでも果てしなく白銀の雪原が広がっていた。
色がない。
音もない。
ただ、圧倒的なまでの“白”。
まるで世界そのものが、呼吸を止めて静かに凍りついているみたいだった。
王都を発ってから、もう何日が過ぎただろうか。
街を離れ人を離れ、文明の気配さえも希薄になっていく。
それなのに。
不思議なことに私の胸は、王都にいた頃よりもずっと軽やかに息を刻んでいた。
「つらいか?」
隣から、耳に心地よい声が響く。
私はそちらを見ることなく、小さく首を振った。
「……いいえ」
静かな吐息が、硝子窓を白く曇らせる。
「不思議と、落ち着きますの」
それは、嘘偽りのない本心だった。
王都にいた頃は、常に誰かの視線に晒されていた。
恐怖、警戒、憐憫、あるいは剥き出しの好奇心。
誰もが私を一人の人間としてではなく「白銀の令嬢」「災厄」「怪物」……そんな名で呼んでいた。
少しでも感情を乱せば周囲の空気が凍りつき、私の内側から冷気が漏れ出す。
そのたびに人々が怯え、距離を置く。
それを見るたび、自分自身が人ではない“何か”へと変質していく感覚に心が削られていった。
誰もが恐怖を隠そうともしなかった。
恐れていたのだ。
レティシア・トムソン・イーデンという人間ではなく。
“現象”としての私を。
卒業式の日の光景が、鮮明に蘇る。
静まり返った講堂。
逃げるように逸らされる視線。
私の手が触れた瞬間に凍りついた卒業証書。
『王家管理下へ移送』。
『西方離宮における無期限静養』。
あれは静養などという甘いものではない。
隔離であり、永久監禁だ。
国家による管理という名の封印。
私はあの日、人としての未来を、完全に失ったのだ。
「……」
胸の奥が、じわりと鈍く痛む。
もしあのまま私が王都に残っていたら、どうなっていただろう。
きっと、少しずつ心が壊れていったに違いない。
感情を削り取られ、自由を奪われ、最終的にはただの“生きた封印”として地下深くへ埋もれていったかもしれない。
そう考えれば、今こうして北へ向かっていることは、望みうる最高の結果なのだろう。
それでも。
私は、隣に座る彼へ視線を向けた。
フレデリックは、穏やかな表情で静かに本を読んでいる。
窓から差し込む薄明かりが、その端正な横顔を優しく照らしていた。
静かで満ち足りていて、まるで何も失っていないかのように見える。
けれど、そんなはずがない。
彼は王位を捨てた。
未来を、栄光を、これまでの人生のすべてを。
全部、私のために。
その重すぎる事実が、今も私の胸を締めつける。
「……今日は、継承宣誓式でしたわね」
ぽつりと零れた独り言に、フレデリックは顔を上げ、小さく頷いた。
「ああ」
「今頃、王都は賑やかでしょうね」
「だろうね」
短い会話。
その後に続く静けさが、逆に苦しかった。
本来なら。
今頃彼は、祝福の鐘に包まれ民衆の熱狂的な歓声を浴びながら、新しい王になるべく輝かしい一歩を踏み出していたはずなのに。
それなのに今、彼は雪原を進む馬車の中にいる。
私という“怪物”を連れて。
私はそっと目を伏せた。
「……私がいなければ」
掠れた声が、足元へ落ちる。
フレデリックが、わずかに眉を寄せた。
「レティ」
「貴方はきっと、立派な王になれましたわ。誰よりも」
誠実で、優しくて、どこまでも真っ直ぐな人。
アレン殿下も素晴らしい王になるだろう。
けれど、フレデリックだってそうだった。
民を愛し、国を守り、光の中に立つ資格を誰よりも持っていた人。
なのに、その輝かしい未来を私が壊してしまった。
「……まだそんなこと言うんだ」
困ったように、フレデリックが笑った。
私は視線を逸らす。
「事実でしょう」
「違うよ」
穏やかな、けれど力強い否定。
「私は、自分でこれを選んだんだ」
「でも」
「君を置いて王になるくらいなら、たぶん私は、王になった後で内側から壊れてた」
一瞬、息をするのを忘れた。
彼の声音は、どこまでも凪いでいた。
「君が苦しんでいるのを知りながら、それを見捨てて平然とした顔で玉座に座る。そんな自分を、たぶん私は一生許せなかったと思う。一番嫌いな人間になっていたはずだ」
馬車が大きく揺れる。
沈黙が降りた。
窓の外では、静かに雪が降り積もっている。
白。
どこまでも、白。
冷たいはずの世界なのに、私の胸の奥だけが、不思議な熱を帯びていた。
「……馬鹿な方」
小さく呟くと、フレデリックが楽しそうに笑った。
「知ってる」
「本当に、救いようがありませんわ」
「でも君、そういう僕のこと嫌いじゃないだろう?」
私は思わず、噴き出してしまった。
「……自惚れです」
「否定が弱いな」
「うるさいですわ」
小さく、笑い合う。
その時間は、これまでに経験したことがないほど穏やかだった。
王都では、こんなふうに心から笑うことなんてできなかった。
何かに怯え、何かに絶望していたから。
壊れることに。
傷つけることに。
そして、愛されることに。
けれど今は、世界から切り離された雪の中で、誰にも見られず誰にも恐れられず、ただ彼だけが隣にいる。
「……変ですわね」
私は、窓の冷たい硝子へ額を預けた。
嫌な冷たさではない。
むしろ、熱を持った頭を心地よく冷やしてくれる。
「何が?」
「王都では、あんなに春を望んでいたのに」
白銀の世界を見つめる。
静かな冬。
誰もいない、世界の果て。
「今は、この冬の方が落ち着くなんて」
自分はきっと、冬に属する人間なのだろう。
暖かな陽光の中では、生きていけない。
そう思っていた。
けれど。
「それなら」
フレデリックの声に、私は顔を上げた。
彼は、冬の陽光のように静かに笑っていた。
「私も冬に行くよ」
その言葉が、胸の奥に張り付いていた最後の氷を溶かしてくれた気がした。
馬車は進む。
王都から遠く。
光から遠く。
誰もいない、白銀の果てへ。
それでも。
もう以前ほど、怖くはなかった。




