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忘却

深夜の静寂が支配する離宮の一室で、私は一人月明かりの差し込む窓辺に座っていた。


眠れない。

最近は、目を閉じることさえも恐ろしかった。

意識が微睡みの底へ沈むたび、私を形作っていた大切な記憶が、古い壁紙のように一枚、また一枚と剥がれ落ちていく感覚がある。


それらは、私がこの過酷な世界で正気を保つための唯一の錨だった。

なのに、思い出そうと手を伸ばすたびに、霧がかかったようにその輪郭がぼやけ、指の間から砂のように零れ落ちていく。


「……あれ……」

ぽつり、と掠れた声が漏れた。

「どうして……?」


思い出せない。

一番大切だった、あの人の、名前が。


慈愛に満ちた顔がぼんやりと浮かぶ。

私を呼ぶ優しい声も。

不器用な笑い方も。

すべてが、私の魂に刻まれているはずなのに。


名前が、どうしても出てこない。

今の私が持つ白銀の呪いが過去の愛すらも凍りつかせて粉砕してしまったかのように。


「……っ、ぁ……」

呼吸が浅くなり、乱れていく。


怖い。

恐ろしくてたまらない。

忘れたくなかった。

自分を捨ててまで、永遠に心の中に留めておくと誓ったはずの人だったのに。

 

頬を、一筋の冷たい涙が伝い落ちる。

その雫が床に触れる前に、小さな氷の粒となって弾けた。




───その時だった。


「レティ」

背後から、静かで落ち着いた声が届く。

振り返ると、そこにはいつの間にか現れたフレデリックが立っていた。


「また眠れていないのか」

彼は咎めることもなく、ごく自然な動作で自らの外套を私の震える肩へと掛けた。

その重みと彼自身の体温が混じった温もりに、私の身体から強張っていた力が少しだけ抜けていく。


「……フレデリック殿下」

「なんだ」


彼の名前を呼ぶ。

それは、呼吸をするのと同じくらい簡単に。

意識せずとも口から滑り落ちる、当たり前の響きとして。


フレデリック。


その名前だけは、周囲を拒絶するこの冷気の檻の中でも驚くほど鮮明に、色褪せることなく残っていた。

「……どうして、貴方の名前だけは忘れないのかしら」


自嘲気味な私の言葉に、殿下が僅かに目を細める。

私は力なく俯いた。


「私は……忘れたくなかった人たちを、少しずつ忘れていくのに。私の心から、光が消えていくのに」

震える声を抑えきれず、私は膝の上で拳を握りしめる。

「貴方の名前だけが、ずっと消えずに残っていくの」


静寂が、部屋を満たす。

やがて、フレデリックはそっと私の白銀の髪へ触れた。

指先が凍傷に侵される痛みも厭わず、逃げ場のないほどの慈しみを持って。


「……それでいい」

「よくありませんわ……。私は、私を失いかけているのに」

「いいんだ、レティ」


彼は静かに、断定するように言った。

その言葉が、私の凍りついた胸に深く、鋭く刺さる。


この冷たさを抱え異形へと変わり果てながらも、レティシア・トムソン・イーデンとして、この世界に踏みとどまっていること。

その冷酷なまでに誠実な現実を、彼は真っ直ぐに突きつけてくる。


「……ずるい方。私の逃げ場を、すべて奪ってしまうのね」

「今さらだろう。君がどこへ逃げようと、僕がその先で君を呼んでいる」


少しだけ、困ったように笑う声。

私は、ゆっくりと重い瞼を閉じた。


 


忘れていく。

失っていく。

いつか、私が私でなくなる日が来るのかもしれない。


それでも。

この世界に私を繋ぎ止め、氷の底から私の名前を呼び続けてくれる熱だけは、まだ、消えることを許されていなかった。

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