陽だまりの檻
その日の夜。
私は珍しく、激しい発作に襲われることはなかった。
けれど、深い眠りに落ちているわけでもなかった。
学生会室の奥の仮眠用の長椅子へ横たわったまま、私はぼんやりと高い天井を見つめていた。
視界の端、部屋の隅には、昼間に自分が壊してしまったクロッカスの無惨な欠片が転がっている。
誰にも片付けさせなかった。
この痛みと罪悪感だけが、今の自分が“人”であることを証明しているような気がしたからだ。
「……未練がましいですわね、私も」
小さく呟く声が、静寂に吸い込まれていく。
あの花は、春の象徴だった。
ソフィ様が届けてくれた、私が帰りたい場所の断片。
けれど、私が触れた瞬間にそれは砕けた。
まるで、今の私の存在そのものがあらゆる生命を拒絶しているのだと突きつけられたようだった。
───コンコン。
控えめだが、意志の強さを感じるノック音。
返事をする間もなく、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
「起きていたか」
そこに立っていたのはフレデリックだった。
私は少しだけ眉を寄せ、身を起こさずに視線だけを向ける。
「……殿下。山積した公務に追われていたのではありませんか?」
「……抜けてきた」
「一国の王太子がすることではありませんわね。周囲の小言が聞こえるようですわ」
「知っている」
即答だった。
あまりの迷いのなさに、私は呆れたように息を吐く。
彼はそのまま部屋へ入り、私の視線の先にあった砕けた花弁へと目を向けた。
一瞬の沈黙。
それから、彼は静かに口を開く。
「ソフィからか」
「ええ」
「……そうか」
それ以上、彼は何も言わなかった。
無理に慰めることも、可哀想だと同情を寄せることもない。
ただ、静かに私の隣……長椅子の端へと腰を下ろす。
その付かず離れずの距離感が、今の私には酷く心地良かった。
「……殿下」
「うん?」
「私、もう誰にも触れない方がいいのでしょうね」
フレデリックの表情が、僅かに曇る。
私は自分の意思とは無関係に白銀へと変わってしまった髪を揺らし、言葉を続けた。
「花も壊す。物も壊す。……人だって、きっとそう。私の魔力は、触れるものすべてを死へ誘う氷の牙なのですわ」
掠れた声が、室内の冷気に混じって消えていく。
それはもう周囲を圧していた“悪役令嬢“の仮面ではない。
帰る場所を失い自らの存在に怯える一人の少女の声だった。
「ソフィ様のところへ帰っても、あの子を抱きしめることすらできない。私が彼女の隣にいるだけで、あの子の春を奪ってしまう」
「……レティ」
フレデリックが、ゆっくりと私の方を向く。
「君は、大きな勘違いをしている」
「何を、ですの?」
「触れられないことと、愛されないことは、まったくの別問題だ」
その言葉に、私の睫毛が大きく揺れた。
彼は手を伸ばし、床に落ちた砕けた花弁を一片だけ拾い上げる。
私の冷気に当てられ、彼の白い指先が薄く、赤く凍傷を起こし始める。
それでも、彼はその欠片を離そうとはしなかった。
「壊れるから、傷つくからといって離れる程度なら、僕は最初からここまで来ていない」
静かな、けれど熱を帯びた声だった。
「君は、独りで壊れて、独りで消えるつもりだったんだろうけれど」
彼は少しだけ、悪戯っぽく笑った。
「残念だったな。君が何を思おうと、もう手遅れだ。私も、ソフィたちも、君を独りにする気なんてこれっぽっちもない」
思わず息を呑む。
胸の奥が、焼けるように熱い。
苦しくて、痛くて、堪えようとした涙が視界を滲ませる。
「……本当に」
私は小さく、泣き笑いのような声を漏らした。
「どうして皆様、こんな私を諦めてくださらないのかしら」
すると、間髪入れずに言葉が返ってくる。
「諦められるわけないだろ。君以上に価値のあるものなんて、僕にはない」
その迷いのなさが、眩しすぎる。
痛いほどに真っ直ぐな想いが、凍りついた私の心に小さな亀裂を入れていく。
私はそっと目を閉じた。
───……
かつて、失った幸福があった。
二度と帰れない場所、もう二度と触れられない、温かな日々が。
けれど、今。
この残酷な世界にも、私を離さない人たちがいる。
私の帰りを泣いて喜んでくれるソフィ様がいて。
不器用に支えようとしてくれるエレノアがいて。
共に沈む覚悟で傍にいるルーカスがいて。
そして、目の前には……こんなにも愚かで、眩しくて、私を愛している王子がいる。
「……殿下」
「なんだ?」
「少しだけ」
私は躊躇うように視線を落とした。
触れることは叶わないけれど、その気配だけを感じていたかった。
「少しだけ、ここにいてくださいませんこと?」
フレデリックは優しく、慈しむように笑った。
「ああ。君が許すなら、朝までここにいるよ」
「……愛が重いですわね」
「今さらだろ」
その返答に、私は久しぶりに、心の底から少しだけ笑うことができた。
窓の外では、止むことのない雪が静かに降り続いている。
けれどその夜。
凍えきっていたはずの学生会室にはほんの僅かだけ、陽だまりのような確かな温もりが残っていた。




