sideルーカス
廊下の外。
重厚な扉の向こうから、微かに笑い声が聞こえてくる。
ソフィ様の無邪気で高い声。
エレノア嬢の、どこか困惑を含んだ真面目な返答。
そして、それらを静かに、慈しむように受け流す、レティシアの掠れた声音。
私は冷え切った石壁へ背を預けたまま、静かに目を閉じた。
室内から漏れ出してくる魔力は、依然として不安定だ。
彼女の感情が揺れるたび、扉の隙間から薄く刃のような冷気が滲み出してくる。
壊れかけた硝子の器。
一度決壊した魔力回路は、そう簡単には元に戻らない。
ほんの僅かに均衡を崩せば、瞬く間に世界を白く塗り潰す吹雪へと逆戻りするだろう。
それでも。
以前とは、決定的に違っていた。
あの部屋の中には今、確かな“熱”がある。
人の気配。
声。
交わされる感情。
───かつてレティシアが、遠ざけてきたもの。
以前の彼女なら綻びを隠すために自ら距離を取り、独り静かに崩壊することを選んでいただろう。
だが、今は違う。
「……随分と賑やかですね」
私は、感情を削ぎ落とした声で淡々と呟いた。
「病人一人に対して、お節介が多すぎる。これでは安静もままならない」
隣でフレデリック殿下が小さく、けれど深く笑った。
「良いことだ」
迷いのない声だった。
「独りでは抱えきれない絶望も、分かち合う者がいれば耐えられる。彼女には今、静寂よりもその騒がしさが必要なんだ」
私は薄く目を細める。
……相変わらずだ、この男は。
どこまでも真っ直ぐで、愚かなくらいに眩しい。
だからこそ、彼女を追い詰めた。
そして、だからこそ……彼女は今も、地獄の淵で殿下を愛し続けている。
救いようのない、皮肉な話だった。
「……随分と寛大ですね」
私は視線を前方へと向けたまま、静かに問いかける。
「殿下の独占欲はどうしたのです? あの部屋には今、貴方以外の人間が彼女の隣を占めていますが」
「あるさ」
即答だった。
その声音にだけ、隠しきれない苛烈な熱が混じる。
「死ぬほどにな。今すぐにでも扉を開けて、全員を追い出し、彼女を私だけの場所に隠してしまいたいと……そう思っているよ」
沈黙が落ちた。
廊下へ、ふわりと冷気が流れ出す。
扉の向こうで、レティシア嬢の感情が小さく揺れたのだろう。
私は無意識に、その魔力の波を精密に読み取っていた。
……酷い状態だ。
発作の頻度は日を追うごとに増えている。
深刻な睡眠障害。
欠落していく記憶。
そして、魔力回路による肉体の侵食。
もう、何事もなかった頃の“元通り”には戻れない。
それを私も、そして隣に立つ殿下も、誰よりも理解していた。
「だが」
殿下が、低く、独り言のように続ける。
「彼女をこの世界へ繋ぎ止められるなら。彼女が、自分の命を諦めずに済むのなら……今は何だって利用するつもりだ。私の誇りも、周囲の騒音も、そして君の力さえも」
その言葉に。
私はゆっくりと、深く息を吐いた。
───敵わないな、と。
心のどこかで、そう認めてしまう。
私は、彼女の絶望を理解できる。
壊れた部分も、心の底に澱のように溜まった醜い感情も、果てしない孤独も。
だから私は、彼女が沈むというのならその隣でどこまでも一緒に沈める。
暗闇の底で、共に凍てつく準備はできている。
だが、この男は違う。
殿下は、どれほど拒絶されてもその身をどれほど傷つけられても、なお彼女を光の側へと引き戻そうとするのだ。
それは、私には決して真似できない強さだった。
窓の外へ視線を向ける。
重く垂れ込めた灰色の空。
微かに混じる、雪の匂い。
また、冬が近づいている。
───レティシア。
貴女はきっと、また壊れる。
この先、何度でも。
殿下の眩しすぎる愛に傷つき。
自分自身の異質さに耐えかねて絶望し。
世界を拒絶しながら、それでも剥き出しの心で誰かを求め続けるだろう。
それでも。
以前よりは、少しだけましだ。
あの扉の向こうには、貴女の名を呼ぶ声がある。
貴女がどんなに壊れても、なおその手を掴もうと伸ばし続ける人間がいる。
それはきっと、貴女を縛り付ける呪いであり。
同時に、貴女をこの世に繋ぎ止める唯一の救いでもあるのだろう。
「……戻って、きたのか」
誰に言うでもなく、私は小さく呟いた。
一切の熱を拒んだ、凍てついた孤独の底から。
誰かと傷つき、誰かを傷つけ、それでも生きていく場所へ。
その事実だけが、今の私にはどうしようもなく眩しくて。
私は、侵食に震える左腕を隠すように静かに目を伏せた。




