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白き沈黙

───……




視界のすべてが、真っ白な世界に塗り潰されていた。


耳を劈いていたはずの吹雪の音さえ、もう遠い。

視界も、感覚も、自分という存在を定義する輪郭すらも、粉雪のように曖昧になっていく。




───ああ。


落ちていく。

底のない、どこまでも深い深淵へ。


不思議と寒くもなければ、苦しくもなかった。

ただ静かな闇の底へ、ゆっくりと沈んでいく安らかな感覚だけが私を支配していた。


もう、終わるのだと、私はぼんやりと理解していた。

これ以上、誰も傷つけなくて済む。

私の内側に巣食うこの冬が大切な人たちを飲み込む前に、私という器が壊れてしまえばいい。




フレデリックも。

ルーカスも。

これ以上、私のせいで壊れなくていい。


そう、安堵に似た諦念を抱いた瞬間だった。




「……離さない」


鼓膜を震わせる、低い、震えるような声が響いた。

次の瞬間、感覚を失いかけていた私の腕を誰かが壊れんばかりに強く掴んだ。


「っ……」


私の瞳が、驚愕に揺れる。

荒れ狂う白銀の吹雪の中。

そこに立っていたのは、全身を痛々しいほどの傷だらけにしたフレデリックだった。


光り輝いていたはずの髪には雪が積もり、切り裂かれた肩口からは、どろりと赤い血が流れている。

それでも彼は、私の手を決して離そうとしなかった。


「……殿下」

掠れた声が、喉の奥から零れ落ちる。


どうして。

どうして、こんな地獄のような場所まで、ボロボロになってまで。


「迎えに来た」

殿下の声は、微かに震えていた。

それは怒りでも、私への恐怖でもない。

今にも砕けて消えてしまいそうな何かを、必死に、ただ必死に繋ぎ止めようとしている者の声だった。


「君を一人にしない。絶対にだ」

その瞬間。

拒絶に呼応するように、私の内側で魔力が激しく逆巻いた。




───駄目だ。

近づけば、触れれば、この人を壊してしまう。


「来ないで……!」

叫んだ瞬間、私の意思を置き去りにして、暴風のような冷気が吹き荒れた。

石造りの床が瞬時に凍りつき、壁へと無残な亀裂が走る。

激しい衝撃に、殿下の腕から新たな血が滲んだ。

私の魔力が、見えない刃となって彼の皮膚を無慈悲に裂いたのだ。


それでも。

彼は一歩も、退かなかった。


「……それでもいい」

「何を……、死んでしまうわ……!」

「君が一人で苦しんでいる方が、私には耐え難いんだ」


フレデリックの身体から、黄金の魔力が静かに広がっていく。

温かい。

どこまでも真っ直ぐで、どうしようもなく優しい光。

その光が私の肌に触れた瞬間、凍りついていた胸の奥が焼けるような痛みを伴って疼き出した。


「あ……っ」

呼吸が乱れる。

視界が歪む。

急激な熱に晒された氷がひび割れるように、頭の奥で無数の記憶が弾けた。




見たこともないはずの、穏やかな景色。

湯気の立つ温かな食卓。

誰かの穏やかな笑い声。

ぎゅっと握られた、小さな手の感触。

それは当たり前だったはずの、けれど私から奪われた日々の断片。


けれど次の瞬間には、あのアカデミーの崩壊音と私を呼ぶフレデリックの叫び声が、すべてを黒く塗り潰していく。


「……やめ、て……私は……」

分からない。

私は誰。


レティシア・トムソン・イーデン。

公爵令嬢としての私。

それとも。

もっと別の記憶の濁流のどこかにいたはずの“誰か”。


「レティ」

フレデリックが、再び私の名を呼ぶ。

その声だけが、濁流に飲み込まれそうな私を辛うじて現実という岸辺へ繋ぎ止めていた。


だが。

次の瞬間、漆黒の影が分かちがたく結ばれようとした二人の間へ鋭く割り込んだ。


「……それ以上は危険です、殿下」

ルーカスだった。

ルーカスの呼吸は荒く、あれほど端正だった頬は死人のように青白い。

指先は微かに震え、限界を超えているのは明白だった。

それでも彼は私の盾となるように前に立った。


「離れろ、ルーカス。彼女を助けるのは私だ」

「断ります」

凍てつくような、冷え切った拒絶の声。


「今の彼女に無理やり光を注げば、その反動で崩壊が加速する。彼女を殺すつもりですか」

「だから、このまま見捨てろと言うのか!」

「違う」


ルーカスの瞳が鋭く細められる。

「壊れるなら、せめて緩やかに壊すべきだと言っているのです。……私と共に」




その言葉に、私の肩が激しく震えた。

ああ、この人は。

この人は本当に、最後まで私と共に地獄へ落ちるつもりなのだ。

救うためではなく、ただ、共に滅びるために。


「……ルーカス」

「喋るなレティシア」

ルーカスが片手を伸ばす。

その掌から静かな黒い光が溢れ出した。

その光は私を優しく、重苦しく包み込み、暴走する魔力を少しずつ吸い上げていく。


だが同時に。

それを操る彼自身の肌が、じわりと不気味な黒い紋様に侵食され始めていた。


「ルーカス!? 自分の身体が……!」

「問題ない。……慣れていますから」


明らかに、問題しかない声音だった。

彼は自分の生命力を媒介にして、私の暴走を文字通り肩代わりしている。

このまま続けば、遠くないうちに彼の方が先に壊れてしまう。


「やめて……もう、いいの……!」

叫んだ瞬間、再び内側の魔力が暴発しかけた。

だがそれを許さないとばかりに、フレデリックが私の手を強く握りしめる。


「レティ」

真っ直ぐな、一点の曇りもない声。

「戻ってこい。君の居場所はここにある」




温かい。

苦しくて、どうしようもなく泣きたくなる。


「君が何になろうと、どんな姿になろうと関係ない。君が君である限り、僕は絶対に手を離さない」

その言葉が。

粉々に砕けかけていた私の意識を、辛うじて繋ぎ止めた。




吹雪が、少しずつ弱まる。

荒れ狂っていた冷気が、黄金の光と漆黒の影に抑え込まれ、静かに揺らぎ始めた。


 


けれど。

止まったわけではない。

暴走の種火は今も私の内側で唸りを上げ続けている。


ただ、今だけ。

ほんの僅かな奇跡によって“レティシア”という人格が飲み込まれずに済んでいるに過ぎない。


崩れかけた修道院の広間に、静かな沈黙が降りた。

私は糸が切れた人形のように、フレデリックの腕の中へ崩れ落ちた。




意識が、急速に遠のいていく。

最後に見えたのは。

今にも泣き出しそうな顔で私を抱き締める、血まみれのフレデリックと。

壁際で静かに息を吐き、身体を影に侵食されながらも私を見つめるルーカスの姿だった。




深い、深い記憶の底で。

誰かが、優しく笑っていた気がした。


けれど、その顔だけは。

氷の向こう側に消えて、もう、思い出せなかった。

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