白銀の拒絶
凍てついた修道院の最奥、石造りの静寂が支配する部屋の中で私はゆっくりと顔を上げた。
「……っ」
その瞬間、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
まるで剥き出しの心臓そのものを目に見えない巨大な手に無理やり掴まれ、内側から力任せに締め付けられているような感覚。
それは物理的な衝撃というよりも、魂の境界を侵食されるような切実な響きだった。
厚い石壁と、幾重にも降り積もった絶望の雪。
それらを隔てた遠いはずの外の世界から、それでも確かに抗いようのない熱を持って伝わってくるものがある。
温かい魔力。
それはあまりにも真っ直ぐで一片の濁りもなく、迷いなど微塵も感じさせない光だった。
暗闇の底へ沈み込んでいた私に向けて、一点の曇りもなく伸びてくるその光。
それは優しさの形をしているのに、今の私にとってはどうしようもなく胸を締めつける残酷な毒のように感じられた。
「……殿下」
掠れた声が、乾いた唇からこぼれるように落ちる。
来てしまった。
とうとう、この最果ての場所まで。
逃げたつもりだった。
距離を置いたつもりだった。
あの日、すべてを壊して姿を消した時に。
自分の中で何度も「ここから先は入らせない」と線を引いて、けれどそのたびに彼の笑顔を思い出しては泣きながらその線を消して、また引き直して。
そんな惨めな抵抗をあざ笑うかのように、彼は私が引いた絶望の境界線のすべてを、いとも容易く踏み越えてくる。
傍らに立つルーカスは、氷の華が這う窓の外へ視線を向けたまま静かに、そしてどこか悟ったように言った。
「……随分早かったですね。私の予想を、優に越えています」
「ルーカス……」
私が震える声で呼びかけると、彼はわずかに目を細めた。
そこには、彼女の暴走する魔力に晒され続けて限界を迎えているはずの疲労感と、それを一切表に出さない強固な意志が同居していた。
「止めても無駄でしょう」
淡々とした声だった。
けれどその奥には、荒れ狂う嵐を前にしてすでに結論を受け入れている諦観のようなものが滲んでいた。
彼は小さく息を吐き、自らに言い聞かせるように言葉を継ぐ。
「彼はあなたを見つけるまで、絶対に諦めない。……そういう人です」
その言葉が、石のように冷え切った私の胸の奥へ、重く、深く落ちていく。
指先が、微かに震えた。
嬉しい。
私を、こんな姿になった私を、フレデリックがまだ求めてくれるているという事実に、叫び出したいほどの歓喜が湧き上がる。
けれど、それ以上に怖い。
会いたいという剥き出しの渇望と、会いたくないという切実な恐怖。
相反する感情が一度に押し寄せ、かろうじて保っていた心の均衡を粉々に砕いていく。
その瞬間だった。
部屋の空気が、一変する。
温度が一段階、いや、それ以上に急激に落ちたように感じられた。
ぱきり、と。
乾いた音が、逃げ場のない静寂を切り裂く。
床の石畳に、鋭い霜の筋が走った。
壁の隙間へと白い氷の結晶が芽吹き、まるで獲物を探す生き物のように恐ろしい速度で広がっていく。
私の動揺が、そのまま物理的な破壊となって具現化していくのだ。
「……っ、ぁ……!」
魔力が完全に制御を離れ、溢れ出した。
呼吸が浅くなる。
冷気が肺に突き刺さり、うまく動かない。
意識が少しずつ、白濁した霧の中へと遠のきかける。
───駄目だ。
今、この瞬間にフレデリックに会ってしまえば。
ただでさえ脆く保っているレティシアという境界が、完全に崩れてしまう。
私の内側にある底知れない冬が、彼という輝きを一瞬で飲み込み、永遠の闇へと閉じ込めてしまう。
「落ち着いてください」
ルーカスがそっと私の肩を抱き寄せた。
声は静かで、けれど確かな重みがあった。
「あなたの魔力は、今とても敏感になっている。感情に引きずられることは、すなわち周囲を死へと巻き込むことです」
その言葉は残酷なほどに正しい。
理解もできる。
けれど理性がどれほど警鐘を鳴らそうとも、外から聞こえる現実が私を追い詰めていく。
修道院の外から、確かに音が聞こえてきた。
雪を踏み締める音が。
一歩。
また一歩。
迷いのない足取り。
かつて共に歩いた王宮の廊下で聞いた、あの力強い響き。
彼は、まっすぐこちらへ近づいてくる。
その足音が響くたびに、部屋全体の空気が、私の魂が共鳴するように震えた。
顔を見てしまえば、触れてしまえば、自分はきっと戻れなくなる。
抑えていた悲しみも、孤独も、すべてが溶けて溢れ出してしまう。
そしてその代償が、どれほどの惨劇になるかを、私は誰よりも分かっていた。
「……来ないで」
掠れた声が、静まり返った部屋へと落ちる。
祈りにも似たその一言は、もはや誰に向けたものなのかさえ曖昧だった。
フレデリックへの拒絶なのか、あるいは己の中に潜む怪物への懇願なのか。
願いは確かにそこにあったのに。
その願いとは裏腹に、現実は容赦なく、無慈悲に進んでいく。
外の足音は、もうすぐそこまで来ていた。
重く閉ざされた扉の向こう側に、確実に“彼”が立っている気配がする。
彼の持つ黄金の熱量が、扉の隙間からまるで夜明けのように射し込んでくる。
運命は、止まらない。
ゆっくりと、しかし抗いようのない確かな力で。
運命の手は、今まさに修道院の扉へと辿り着こうとしていた。
─────痛い、苦しい。
私の意識は少しずつ薄れつつあった。




