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残命

目を覚ました時。

最初に見えたのは、ひび割れた白い天井だった。


「───……っ」


肺に空気を送り込もうとした瞬間、内側から焼けるような激痛が走った。

指先は感覚を失ったように痺れ、重い。

身体の端々がまるでもう自分のものではない異物に置き換わってしまったかのような、薄気味悪い感覚が全身を支配していた。


「レティ」

低く、掠れた声が降ってくる。

視線を微かに動かすと、ベッド脇に座っていたフレデリックが弾かれたように息を呑んだ。


その顔は、正視できないほどに酷くやつれていた。

端正だったはずの目の下には、死人のような濃い隈が刻まれている。

髪も手入れされることなく乱れたままだ。

彼がどれほどの時間眠りという安息を捨ててここにいたのか、一目で分かってしまった。


「……殿下」

喉が、ひび割れた陶器のように痛んだ。


たった一言。

名前を呼ぶというその行為だけで、全身の乏しい生命力がすべて抜け落ちてしまいそうになる。


フレデリックは震える手で、壊れ物に触れるような危うさで、そっと私の手へ触れた。

その瞬間。


パキ、と。

無機質な音を立てて、私の肌から彼の指先へと霜が走った。


「……っ」

フレデリックが咄嗟に手を離す。

彼が触れた部分の皮膚は、見る間に赤黒く凍傷を起こしていた。

私の身体は、触れる愛さえも拒絶する殺戮の道具へと成り果てている。

私の瞳が、絶望に揺れた。


「……ほら」

力なく、乾いた笑みが漏れる。

「だから、あれほど来ないでと申し上げましたのに。私に触れれば、貴方まで壊れてしまう」


「そんなもの」

彼は苦痛に顔を歪めることもなく、低く、断固とした声で返した。

「いくらでも耐える。君を失う痛みに比べれば、凍傷など微々たるものだ」


「耐えないで……」

その献身が、今の私には何よりも辛い。

彼の言葉の一つひとつが、針のように胸を刺した。


 


静かな部屋だった。

修道院の地下深く、冷気に強い石造りの区画。

崩壊を免れた僅かな場所へ、フレデリックの魔力による幾重もの結界が張られている。


それでも、部屋の壁には薄く霜が張り付いていた。

私が呼吸を一つするたびに、世界の熱が奪われ空気が冷えていく。


生きているだけで。

ただここに存在しているだけで、私は周囲を侵食し、死へと誘っていく。


「……ルーカス、は」

途切れ途切れに呟く。

フレデリックの表情が僅かに曇った。


「隣室だ」

「……生きていますのね」

「辛うじて、な。……命知らずな男だ」


その答えに、私は深く目を伏せた。

あの吹雪の中、暴走の最中で。

ルーカスは自らの生命力を文字通り削り取り、黒い光へと変換して私の魔力を抑え込んだ。


その代償は、あまりにも大きい。

今もなお、先生の身体は私が放った影の侵食を受け続けている。

私の命を繋ぎ止めるために、彼は自分の命を切り売りしたのだ。


「……なんて馬鹿なことを」

ぽつりと零れる。

するとフレデリックが静かに、けれど強い意志を込めて言った。

「その台詞は、そのまま君にも返せる。……君がどれだけ自分を疎もうと、僕は君を諦めない」


私は何も答えなかった。

いや、答えられなかった。

彼の瞳にある光があまりにも眩しすぎて。




───……


それから三日。

私は未だ、まともに起き上がることさえ叶わなかった。


食事は砂を噛むようで、ほとんど喉を通らない。

私が触れれば水は氷に変わり、熱を持った食器は急激な温度差に耐えきれずに音を立てて割れる。

浅い眠りに落ちれば、抑制の利かない魔力は悪夢のように漏れ出し部屋を凍てつかせる。


だから、誰も。

私の傍で深く眠ることなど、許されなかった。


「……また、発作ですか」

重苦しい扉が開く音と共に、ルーカスの声が響いた。

彼は入り口の壁へ寄りかかったまま、静かに私を見ていた。

以前より明らかに痩せ、頬はこけている。

そして、捲り上げられた左腕には蛇のようにのたうつ黒い侵食痕が深く刻まれていた。


「ルーカスこそ……寝てくださいませ。そのお体で無理をなさるから」

「あなたを放置して眠れるほど、私は器用ではありません。……それに、寝るのも飽きました」


不遜な態度は変わらない。

けれど、その瞬間。


私の指先から、再び火花のような青白い冷気が散った。

急激に室内の温度が落ちる。

吐き出す吐息が、真っ白に染まる。


「……っ」

頭を抉られるような激痛。

視界が、万華鏡のように歪む。

その時だった。


脳裏へ、唐突に知らない景色が鮮烈に流れ込む。

柔らかな灯り。

並べられた、見慣れない料理の数々。

そして、誰かの温かな笑い声。


けれど。

肝心の顔だけが、どうしても思い出せない。


「……ぁ」

何だった。

今のは、一体何だったの。

必死にその残像を掴もうとした瞬間、さらに激しい頭痛が私を襲う。


「レティシア!」

ルーカスが咄嗟に私を支える。

彼の手が触れた部分からじわりと、容赦なく霜が広がっていく。

それでも彼は手を離さない。


「……また記憶障害か。頻度が上がっている」

ルーカスが苦いものを噛み潰したように低く呟く。

私は震える手で額を強く押さえた。


「……最近、忘れるのです。大事なはずのことを、次々と」

「何を忘れたのですか」

「色々……ですわ」


声が、自分でも驚くほど弱々しい。

「昨日のことも。先程、誰と何を話したかも。……時々、自分が誰なのかさえ曖昧になる。レティシアという名前が、ただの記号のように思えて……」


地下の部屋に、痛いほどの静寂が落ちた。

ルーカスは少しだけ目を伏せ、冷酷なまでの事実を突きつける。


「魔力が、あなたの精神を侵食している。器が保てなくなっているんだ」

「……ええ。分かっていますわ」

「ですが、まだ“あなた”は残っている。そうでしょう」


私は笑った。

鏡を見ずとも分かるほどに、酷く弱々しく、消え入りそうな微笑み。


「……ええ。残っているだけ、ですわね。いつまで、持ちこたえられるかしら」

その言葉への返答は、誰からも、返ってこなかった。

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