白銀の境界
修道院の朝は恐ろしいほどに静かだった。
以前なら聞こえていたはずの、朝を告げる鳥の声も木々のざわめきもない。
静かすぎて、自分の浅い呼吸音さえ耳障りに感じるほどだった。
吐き出す息が白く染まるたび、私の内側から熱が失われていくのが分かった。
私は寝台の上でぼんやりと高く遠い天井を見つめていた。
ここ数日、まともに起き上がることさえできていない。
発作が起きるたびに意識を深い闇へと引きずり込まれ、ようやく目覚めれば自分の身体の感覚が少しずつ、けれど確実に鈍くなっているのに気づく。
指先の痺れ。
肌に触れる空気の温度。
胸の奥で刻まれる、命の鼓動。
そういう当たり前だった“人間だった頃の感覚”が、薄氷が剥がれ落ちるようにゆっくりと、私から失われていく。
「……レティシア」
聞き慣れた足音と共にルーカスが部屋へ入ってくる。
その手には、湯気の立つ薬湯が握られていた。
けれど彼が私の側へ近づいた瞬間、微かな音を立てて表面が薄く凍りついた。
立ち上っていたはずの湯気が、一瞬にして冷気に飲み込まれて消える。
私は、逃げるように目を伏せた。
「……また。私のせいで、温かなものが消えていく」
「気にしなくていい」
「でも」
「今さらです」
彼の声は、どこまでも淡々としていた。
だが、視線を上げた先に見えた彼の顔色は以前より明らかに悪かった。
頬は痩け、唇の色も血の気を失って薄い。
私を、この化け物じみた力を抑え込むために、彼自身が私の魔力に長期間、無防備に晒され続けている。
それがどれほど危険で、どれほど身を削る行為か。
分かっているのに、それでも彼は何も言わなかった。
「ルーカス」
「はい」
「最近、夢を見ますの」
ルーカスが僅かに目を細めた。
「どんな夢です」
「……覚えていないのです。どうしても」
私は、自分自身を嘲笑うように苦く笑った。
「とても温かかった気がするのに、目覚めるとその温もりだけが、砂のように指の間から零れて消えてしまうの」
思い出せない。
優しく呼んでくれた誰かの声。
私を抱きしめてくれた誰かの手。
心の底から「帰りたい」と願った、どこか陽だまりのような場所。
それらが、朝になると驚くほど綺麗に抜け落ちている。
心に残るのは、埋めようのないどうしようもない喪失感だけだった。
「……忘れてはいけない気がするのです。私という人間を繋ぎ止める、一番大切なものだったような……」
ぽつりと、自分でも気づかないほど小さな声を漏らした瞬間だった。
パキ、と。
乾いた音が部屋に響いて寝台の脚が根元から凍りつき、重さに耐えかねて音を立てて崩れ落ちた。
私は小さく息を呑む。
まただ。
感情がほんの少し揺れるだけで、私の意思に関係なく周囲が壊れていく。
昨日は、窓硝子を一面の白に染め上げて割った。
一昨日は、重厚なはずの扉を歪ませた。
その前は修道院の庭へ迷い込み、私の近くへ降り立った小さな鳥だった。
触れてもいない。
ただ、そこに私がいただけで。
たったそれだけで、小鳥は凍りついて地面へ落ちた。
───嫌……。
胃の奥が、氷を詰め込まれたように冷える。
私はもう、人里へなど行ってはいけない。
誰かの隣で笑い合うことも。
愛おしい誰かへ触れることも。
この手ですべてを壊してしまう私には、もう、許されないのだ。
「レティシア」
ルーカスが静かに私の肩へ触れた。
その掌は、驚くほど冷たい。
けれど、最近の私にはその容赦のない冷たさだけが、唯一の安心だった。
体温のある温もりは、今の私にはあまりにも眩しすぎて触れるのが怖かったから。
「考えすぎです」
「……ルーカスは、最近ずっとそう言いますわね」
「実際その通りなので」
私は少しだけ、本当に少しだけ笑った。
その瞬間、ルーカスが小さく、けれど重苦しく咳き込む。
「……ルーカス?」
「問題ありません。喉が乾燥しているだけです」
───嘘だ。
彼の手袋越しでもわかるほど、その指先は、微かに、けれど絶え間なく震えていた。
私の魔力を無理やり抑え込むたび、ルーカス自身の生命力も、確実に削り取られている。
分かっている。
分かっているのに。
それでも彼は、絶対に私の側から離れようとはしない。
「……どうして」
「何がです」
「どうして、そこまでしてくださるの。私はもう、救いようのない怪物なのに」
彼は、少しだけ沈黙した。
窓の外では、私の心が溢れ出したような白い雪が、どこまでも降り続いている。
「今さら離れたところで、あなたは一人で壊れるだけでしょう。後片付けが面倒になるだけだ」
静かで、飾り気のない声。
「なら、最後まで付き合う方が、私の性に合っています」
私は、そっと目を閉じた。
優しい言葉ではない。
甘い慰めでもない。
なのに、その硬い言葉が今の私にはどうしようもなく救いだった。
一人で壊れていく恐怖を半分、彼が背負ってくれている。
その事実だけを頼りに、私はまだ、明日を望むことができていた。




