表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/104

白銀の境界

修道院の朝は恐ろしいほどに静かだった。

以前なら聞こえていたはずの、朝を告げる鳥の声も木々のざわめきもない。

静かすぎて、自分の浅い呼吸音さえ耳障りに感じるほどだった。

吐き出す息が白く染まるたび、私の内側から熱が失われていくのが分かった。


私は寝台の上でぼんやりと高く遠い天井を見つめていた。

ここ数日、まともに起き上がることさえできていない。

発作が起きるたびに意識を深い闇へと引きずり込まれ、ようやく目覚めれば自分の身体の感覚が少しずつ、けれど確実に鈍くなっているのに気づく。


指先の痺れ。

肌に触れる空気の温度。

胸の奥で刻まれる、命の鼓動。


そういう当たり前だった“人間だった頃の感覚”が、薄氷が剥がれ落ちるようにゆっくりと、私から失われていく。


「……レティシア」

聞き慣れた足音と共にルーカスが部屋へ入ってくる。

その手には、湯気の立つ薬湯が握られていた。


けれど彼が私の側へ近づいた瞬間、微かな音を立てて表面が薄く凍りついた。

立ち上っていたはずの湯気が、一瞬にして冷気に飲み込まれて消える。


私は、逃げるように目を伏せた。

「……また。私のせいで、温かなものが消えていく」

「気にしなくていい」

「でも」

「今さらです」


彼の声は、どこまでも淡々としていた。

だが、視線を上げた先に見えた彼の顔色は以前より明らかに悪かった。


頬は痩け、唇の色も血の気を失って薄い。

私を、この化け物じみた力を抑え込むために、彼自身が私の魔力に長期間、無防備に晒され続けている。

それがどれほど危険で、どれほど身を削る行為か。

分かっているのに、それでも彼は何も言わなかった。


「ルーカス」

「はい」

「最近、夢を見ますの」


ルーカスが僅かに目を細めた。

「どんな夢です」

「……覚えていないのです。どうしても」

私は、自分自身を嘲笑うように苦く笑った。


「とても温かかった気がするのに、目覚めるとその温もりだけが、砂のように指の間から零れて消えてしまうの」


思い出せない。

優しく呼んでくれた誰かの声。

私を抱きしめてくれた誰かの手。

心の底から「帰りたい」と願った、どこか陽だまりのような場所。


それらが、朝になると驚くほど綺麗に抜け落ちている。

心に残るのは、埋めようのないどうしようもない喪失感だけだった。


「……忘れてはいけない気がするのです。私という人間を繋ぎ止める、一番大切なものだったような……」

ぽつりと、自分でも気づかないほど小さな声を漏らした瞬間だった。


パキ、と。

乾いた音が部屋に響いて寝台の脚が根元から凍りつき、重さに耐えかねて音を立てて崩れ落ちた。

私は小さく息を呑む。


まただ。

感情がほんの少し揺れるだけで、私の意思に関係なく周囲が壊れていく。


昨日は、窓硝子を一面の白に染め上げて割った。

一昨日は、重厚なはずの扉を歪ませた。

その前は修道院の庭へ迷い込み、私の近くへ降り立った小さな鳥だった。


触れてもいない。

ただ、そこに私がいただけで。

たったそれだけで、小鳥は凍りついて地面へ落ちた。




───嫌……。


胃の奥が、氷を詰め込まれたように冷える。

私はもう、人里へなど行ってはいけない。


誰かの隣で笑い合うことも。

愛おしい誰かへ触れることも。

この手ですべてを壊してしまう私には、もう、許されないのだ。


「レティシア」

ルーカスが静かに私の肩へ触れた。

その掌は、驚くほど冷たい。


けれど、最近の私にはその容赦のない冷たさだけが、唯一の安心だった。

体温のある温もりは、今の私にはあまりにも眩しすぎて触れるのが怖かったから。


「考えすぎです」

「……ルーカスは、最近ずっとそう言いますわね」

「実際その通りなので」

私は少しだけ、本当に少しだけ笑った。


その瞬間、ルーカスが小さく、けれど重苦しく咳き込む。

「……ルーカス?」

「問題ありません。喉が乾燥しているだけです」




───嘘だ。

彼の手袋越しでもわかるほど、その指先は、微かに、けれど絶え間なく震えていた。

私の魔力を無理やり抑え込むたび、ルーカス自身の生命力も、確実に削り取られている。

分かっている。

分かっているのに。

それでも彼は、絶対に私の側から離れようとはしない。


「……どうして」

「何がです」

「どうして、そこまでしてくださるの。私はもう、救いようのない怪物なのに」


彼は、少しだけ沈黙した。

窓の外では、私の心が溢れ出したような白い雪が、どこまでも降り続いている。


「今さら離れたところで、あなたは一人で壊れるだけでしょう。後片付けが面倒になるだけだ」

静かで、飾り気のない声。

「なら、最後まで付き合う方が、私の性に合っています」


私は、そっと目を閉じた。


優しい言葉ではない。

甘い慰めでもない。

なのに、その硬い言葉が今の私にはどうしようもなく救いだった。


一人で壊れていく恐怖を半分、彼が背負ってくれている。

その事実だけを頼りに、私はまだ、明日を望むことができていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ