sideエレノア
私は、最近ほとんど眠れていなかった。
理由は二つ、レティシア様とフレデリック殿下だ。
目を閉じれば、あの日崩落した時計塔の轟音が耳の奥で蘇る。
レティシア様のことが、そして、レティシア様を失ってから怪物のような執念に取り憑かれてしまったフレデリック殿下が心配で堪らない。
「殿下、少しはお休みください。もう夜が明けてしまいます」
あまりにも、酷い状況。
積み上げられた魔導書と、ひどく汚れた地図。
その山へ突っ伏すようにして、フレデリック殿下は大量の資料へ目を通している。
以前のような彼を象徴していた香ばしいアロマの香りは消え失せ、部屋には焦燥感と古びた紙の匂いだけが停滞していた。
運ばれてきた食事は、冷め切ったまま手付かず。
代わりに空になった珈琲のカップだけが、無機質に増えていく。
以前のような、周囲を包み込む余裕ある微笑みはもうどこにもなかった。
光り輝く第一王子としての面影は、削げ落ちた頬と死人のように深く刻まれた目の下の隈に塗り潰されている。
「……時間がない」
殿下は書類から目を離さない。
その指先は微かに震え、掠れた声が部屋の隅々にまで染み込んでいく。
「また北方の村で凍結被害が出た。魔力障害の範囲も拡大している。このままだと、事態は騎士団だけでは収拾がつかなくなる」
「でも、殿下……それはまだ、レティシア様が引き起こしたものと決まったわけでは……」
「彼女だ」
遮るような、即答だった。
その断定的な声音に私は二の句が継げず、言葉を失う。
否定しようのない確信が、冷徹な響きを伴って室内の空気を凍らせていた。
「分かるんだ」
殿下は、指から血が滲むほどに強くボロボロの地図をなぞる。
「……レティは、今も苦しんでいる。誰にも助けを求められず、独りで、自分自身に焼き尽くされそうになりながら」
その瞳は、確かに壊れかけていた。
けれど、その奥底に宿る熱量だけが彼を辛うじてこの現実に繋ぎ止めている。
私にはその光がまるで自分自身を燃料にして燃え上がる炎のように見えて、恐ろしかった。
───……
夜が更け、私は重苦しい執務室を後にした。
けれどすぐには去ることができず、廊下で一人立ち尽くしていた。
閉ざされた扉の向こうから、絶え間なくページを捲る音が聞こえる。
時折、羽根ペンが紙を強く引っ掻くような鋭い音も。
まだ調べている。
もう何日、殿下はまともに横になっていないのだろう。
私が微力ながらお手伝いをして魔力の痕跡を辿るヒントを差し出すたびに、殿下は自らを削り取るようにして、その先へ進もうとする。
「……どうしてそこまで」
ぽつりと呟いた疑問は、誰に宛てたものでもなかった。
レティシア様を救いたいのは私も同じ。
けれど、今の殿下のやり方はまるで自分という存在を使い潰して、その灰の中に彼女を探しているかのようで。
すると背後から、衣擦れの音と共に、掠れた声が返った。
「愛しているからだろう。……それ以外の理由が、あると思うかい?」
振り返ると、いつの間にか部屋から出てきたフレデリック殿下が立っていた。
いつから、どれほどの間、そこにいたのかも分からない。
殿下は疲弊し切った顔で、それでも、自分を嗤うかのように微かに笑った。
「笑うだろう? 周りから見れば、今の私は狂っている。それでも、私はまだ……私だけが、彼女を助けられると思っているんだ」
「殿下……」
「レティは、誰よりも優しいから。自分から助けを求めるなんて、あの夜の時点でやめてしまったはずだ」
私を呼ぶ時の声とは違う、どこまでも深く、痛いほど優しい響き。
その声が、私の胸を痛烈に締め付ける。
殿下が彼女を想うその深さが、今の彼を壊しているのだ。
「だから、迎えに行くしかないんだ。彼女が、自分を見捨ててしまう前に」
レティシア様が深い冬の中で苦しみ、殿下もまた、その影を追って壊れていく。
誰も悪くないのに。
誰もが誰かを想っているだけなのに。
どうしてこんなことになってしまったのか。
私の瞳に、堪えきれない涙が溜まっていく。
「……必ず、連れ戻す」
殿下は、廊下の窓から遠い夜空を見上げた。
夜の闇の向こう。
国境の遥か先。
凍てついた森の奥深くにいるはずの、大好きなレティシア様の方角へ。
「たとえ、私自身が壊れても。……何ひとつ残らなくなっても」
殿下のその瞳だけが、真っ暗な廊下で燃え尽きることのない残火のように、静かに、けれど激しく揺れていた。




