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凍土

修道院の周囲から人が消え始めていた。


窓硝子の向こう、かつては巡礼者たちの話し声や馬車の車輪の音が微かに届いていた街道は、今や厚い沈黙に支配されている。

私がここへ来てからおそらく数週間。

その短い間に世界は鮮やかな色彩を失い、白一色の拒絶に塗り潰されてしまった。


最初はただの噂だった。


風に乗って運ばれてくる、怯えた人々のざわめき。

私の耳には、彼らが何を囁き合っているのかが魔力の震えを通じて痛いほどに伝わってくる。


“森が凍っている”

“夜中に白い女を見た”

“近づいた家畜が死ぬ”


そんな曖昧な怪談。

誰かが作り出した、冬の夜の恐ろしい寓話。

けれど数週間も経てばそれは現実として村人たちを侵食し始める。


「……また井戸が凍ったらしい」

「呪いだよ。国境の山に“災厄”が棲みついたんだ」


酒場の隅で、あるいは冷え切った家屋の中で、人々が身を寄せ合って漏らす震えるような声。

それらは、目に見えない死の気配が着実に彼らの生活を侵食している証だった。


誰も、その正体を知らない。


ただ、霧深い森の奥に“触れるものすべてを凍らせる白銀の怪物”がいると恐れていた。

私がそこに座っているだけで。

呼吸を繰り返すだけで。

見えない冬が四方へと滲み出し、彼らのささやかな幸福を奪い去っていく。




修道院の廊下を歩くたび、石床へ霜が走る。

それはまるで見えない足跡のように私の歩みに合わせて白く、鋭く、命を拒絶するように伸びていく。

私は、自分の吐息が白く染まるのをぼんやり見つめていた。


感情が揺れれば冷気が溢れ、眠れば周囲が凍る。


指先ひとつ動かさずとも、私の意志を置き去りにして力が暴走を始めていた。

今朝など、目覚めた瞬間に椅子の脚が砕け散った。


激しい衝撃音と共に、使い古された木製の家具が無残な氷の破片へと変わる。

それは私が人間としての生活を送ることを、世界そのものが拒んでいるかのようだった。




───こんなのもう、人間じゃない。

乾いた笑みが漏れる。


鏡を見ずとも分かる。

私の瞳にはもはや生気はなく、肌は凍てついた大理石のように硬く冷たくなっている。

私は生きているのではない。

ただ、氷結の中心点としてそこに存在しているだけなのだ。




窓の外では雪が降り続いていた。

空を覆い尽くす鈍色の雲。

自分が原因だともう分かっている。

空が泣いているのではない。

私の内側にある底知れない冬が、溢れ出して天を染めているのだと。


「……また村へ被害が出たようです」

背後でルーカスが静かに告げた。


彼の声にさえ、私の冷気は容赦なく襲いかかる。

彼が纏う魔術的な防御さえも、今の私の力の前では薄氷のように心許ないはずだ。

私の肩が僅かに震える。


「……そう」

「森の凍結範囲も広がっています。このままでは、いずれ修道院周辺から人が消えるでしょう」

責める口調ではない。

淡々と、冷徹に。

逃げ場のない事実を述べているだけ。


それが逆に苦しかった。

いっそ罵倒された方がまだ救いがあったかもしれない。

自身の存在そのものが、他者の生を根こそぎ奪い去っているという現実。

これを何の飾りもなく突きつけられる沈黙が、私の心を鋭く切り刻む。


「……私、ここへ来ない方が良かったのかしら」

どこへ行けば良かったのか、その答えなどないのに。

「今さらですね」

即答だった。

一切の猶予を与えない彼の言葉が、私をこの地獄に繋ぎ止める。


私は小さく目を伏せる。

その通りだ。

今さら戻れない。

溢れ出た力を止める術も犯した罪を拭う術も、私は持ち合わせていない。


アカデミーにも。

王都にも。

あの頃の自分にも。


あの日時計塔で崩れ落ちた瞬間に、レティシア・トムソン・イーデンという人間は、もう半分死んでしまったのだ。


「レティシア」

ルーカスが私へ外套を掛ける。

彼の指先が触れるわずかな瞬間でさえ、外套の布地が硬く凍りつきバリバリと乾いた音を立てる。


「自己嫌悪で暴走される方が厄介です。考えるのはやめなさい」

「……あなたは優しくありませんわね」

「優しくして解決するならそうしています」


私は僅かに笑った。

かつてなら冗談として受け流せたであろうそのやり取りも、今は互いの間に横たわる絶望を確認する儀式のように響く。


けれどその瞬間、床へ亀裂が走る。

パキ、と。

凍結した石壁が耐えかねたように悲鳴を上げ、音を立てた。

もはや、この堅牢な聖域さえも私という災厄を閉じ込めておくには不十分だった。


修道院そのものが、私の魔力に耐えきれなくなっていた。




───……


夜になると、部屋の隅に溜まった闇がより一層深くなったように感じる。

修道院の天井からまた石片が落ちた。


静寂の中で響くその音は、終わりの予兆のようだった。

私は暗闇の中で静かに目を閉じる。

遠くで狼の遠吠えが聞こえた。


山を統べる誇り高き獣の声。

その声さえ、最近では怯えているように聞こえる。

自分よりも遥かに強大で、遥かに無機質な死がそこに座していることを、獣の本能が感じ取っているのだ。


───ごめんなさい。


誰へ向けた謝罪なのか。

もう自分でも分からなかった。


遠いアカデミーで今も私を追っているであろう彼へか。

それとも、自分のせいで居場所を奪われた名もなき村人たちへか。

あるいは、壊されていくこの世界そのものへか。


ただ、自分が存在しているだけで世界を壊していく。


呼吸ひとつ、瞬きひとつが破壊に繋がる地獄。

その事実だけが、降り積もる雪のように静かに私を蝕み続けていた。

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