混濁する境界
窓の外は、絶え間なく雪が降り続けていた。
けれどそれは、天の理がもたらした季節の産物ではない。
レティシア・トムソン・イーデンという、世界に理不尽な冬を強いる“災厄”が、その身の裡から無意識に周囲の熱を奪い続けている結果だった。
修道院の強固な石壁には血管のような白い霜がびっしりと張り付き、滑らかな廊下には一歩歩くごとに薄氷が走る。
命の象徴である暖炉の火ですら、彼女がその傍らに立つだけで怯えるように小さくなり、赤から不吉な青白さへと色を変えた。
「……ルーカス。今日は、何日ですか」
暖炉の前の古い椅子へ糸の切れた人形のように深く身を沈めたまま、私は呟いた。
ルーカスは机に向かい古い魔術書を繰っていたが、その問いに静かに目を上げる。
「日付を気にする余裕があるなら、まだ大丈夫ですね」
「……そういう問題ではありませんわ」
掠れた、湿り気のない声だった。
最近、時間の感覚が極端に曖昧になっていた。
昨日、何を口にしたのか。
いつ眠りにつき、いつ覚醒したのか。
最後に何を考えていたのか。
意識を強く繋ぎ止めておかなければ、魂がそのまま窓の外の霧の向こうへ溶けていってしまう。
自分という器が希薄になり、境界が消えていく。
「……忘れていくのです」
私は幽霊を眺めるような心地で自分の指先を見つめた。
白い。
あまりにも白い。
もはや人間の肌とは思えないほどに生気を失い、透き通った大理石の破片のような質感を帯びていた。
「大切だったはずのことが、砂の城が崩れるように、少しずつ消えていくのが分かるのです」
「暴走した魔力に精神が引きずられているのでしょう」
ルーカスは事も無げに、淡々と答えた。
「膨大な魔力という奔流に意識が浸されれば、記憶の混濁は珍しい症状ではありません」
「……混濁、ですか」
レティシアは力なく、小さく笑った。
混濁。
もし本当にただ混ざり合ってぼやけているだけなら、どれだけ楽だっただろう。
時折、今の自分とは結びつかない知らない景色が鮮明に脳裏を過るのだ。
白い湯気が立ち上る食卓。
オレンジ色の温かな灯り。
記憶にはないはずの、懐かしい誰かの笑い声。
けれど次の瞬間には、あの忌まわしい時計塔が崩壊した夜の魂を裂くような轟音がすべてを真っ黒に塗り潰してしまう。
思い出したい。
その残滓を掴み取りたい。
なのに、指の隙間をすり抜ける霧のように何ひとつうまく掴めない。
「……ルーカス」
「はい」
「私は、一体何から逃げたかったのでしょうね」
ルーカスは静かに本を閉じた。
カツン、と石畳を叩く規則正しい足音が近づく。
彼は私の前へ膝をつき、祈りを捧げるかのように凍えるほど冷たい彼女の両手を包み込んだ。
「あなたは壊れないために逃げたのです」
「……」
「あなたは、あの場所で愛されることに耐えられなかった。あのままアカデミーへ残っていればあなたは確実に自分を、そして周囲を壊していたでしょう」
私は静かに目を伏せた。
───違う。
もう、間に合わなかった。
私はもう壊れている。
壊れ果ててしまったからこそ、こうして果てのない牢獄にいる。
「……最近、怖いのです」
それは誰にも聞かれないように吐き出された、微かな震えを帯びた声だった。
「眠るたび、自分が自分でなくなっていく気がする。……このまま何もかも忘れていつか心も言葉も失って、ただの冷たい怪物になるのではないかって」
その言葉が、私の恐怖の芯に触れた瞬間。
パキ、と。
彼女の足元から鋭い氷の結晶が放射状に広がった。
魔力が、私の絶望に呼応して揺れている。
ルーカスは咄嗟に空間に指を走らせ、防護の術式を展開した。
室内を覆うように、不可視の結界が張られる。
「落ち着いてください。魔力に心を開きすぎてはいけません」
「っ……!」
私は胸元を強く押さえた。
肺の奥まで凍りついたかのように、息がうまくできない。
感情がほんの少しの不安が揺れるだけで、抑え込んでいた魔力が牙を剥いて暴れ出す。
最近は、この発作の間隔が明らかに短くなっていた。
昨夜は眠っている間に、悪夢にうなされて壁へ幾何学模様の亀裂を走らせた。
一昨日は無意識に手を触れた庭木を、一瞬で枯れ木に変えた。
そして今は。
ルーカスが触れているその場所から彼の体温さえ、貪欲に奪い始めている。
「……離れて。貴方まで凍ってしまう」
「嫌です」
即答だった。
私が信じられないものを見るように目を見開く。
しかしルーカスはその冷徹なまでの固執を持って、私の手を離さない。
「あなたが怪物になろうと、世界を滅ぼそうと、私には関係のないことです」
静かな、揺るぎない声。
けれど、常に冷ややかだったその瞳だけがこの凍てつく部屋の中で異様な熱を帯びていた。
「私は最後まで、あなたの側にいます。怪物になったあなたを見届けるのは、私だけでいい」
その呪いのような、あるいは誓いのような言葉に、私の胸の奥が僅かに揺れた。
安心したのか。
それとも、さらなる地獄に踏み込んだことに苦しくなったのか。
もう、自分でもその正体が判別できない。
───……
修道院の光の届かぬ地下室で。
私は再び内側から溢れ出す圧倒的な発作に襲われていた。
「あ……っ、ぁ……! 嫌……っ」
視界が歪み、世界が遠のく。
頭蓋を叩くような激しい耳鳴り。
血管の内側を、氷の粒を含んだ灼熱の魔力が暴風となって駆け巡る。
耐えかねて床へ膝をついた瞬間、重厚な石畳が悲鳴を上げて音を立てて白く凍りついた。
「レティシア!」
ルーカスが力強く私の肩を支える。
けれど、触れた場所から彼の魔力すらも底なしの沼のように引きずり込まれていく。
「……ルー、カス……助け……て……」
掠れた、消え入りそうな声。
怖い。
消えたくない。
まだ、完全に自分を失いたくない。
その瞬間。
ふいに、現在とは全く無関係な遠い記憶の残滓が脳裏を掠めた。
大きな、温かな手。
心地よい、柔らかな声。
“おかえり”
───それだけ。
たったそれだけの、名もなき記憶の破片。
なのに、今の私にはそれが胸が壊れそうなほどに熱く、愛おしく感じられた。
「……っ」
私の瞳から紅く濁った涙が一筋零れ落ち、床に触れる前に冷たい真珠へと変わった。
外ではすべてを拒絶するように静かに雪が降り続けている。
まるで犯した罪も、失った愛も、すべてを等しく覆い隠してしまうように。
───……
レティシア・トムソン・イーデンは、誰にも打ち明けられない褪せゆく記憶を必死に抱きしめたまま。
ゆっくりと、確実に、一歩ずつ“人間”という概念から遠ざかっていった。




