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帰らぬ日

私は王都から遠く離れた深い森の奥の小さな宿で、

一人窓辺へ座っていた。


使い古された木の椅子は、私が動くたびに小さく悲鳴のような音を立てる。

部屋にはランプの灯りもなく、ただ窓から差し込む薄暗い夜の気配だけが室内を青白く満たしていた。


外は夜。

どこまでも続く深い森が、世界を飲み込むように沈黙している。

その静寂を乱すように、静かな雨が降っている。


屋根を叩き木の葉を揺らす、絶え間ない水音。

硝子を伝い落ちる滴を眺めていると、まるで自分自身の輪郭まで溶け出していくような錯覚に陥った。




「眠らないのですか」

背後から届いたのはルーカスの声。


彼は部屋の隅、影が最も濃く溜まった場所に立ち微動だにせずこちらを見ていた。

彼がそこにいるだけで室内の空気がわずかに冷え、重たく沈み込んでいくような気がした。


私は振り返らないまま小さく笑った。


窓硝子に映る自分の影は、あまりにも弱々しく今にも闇に溶けて消えてしまいそうだった。

「眠ると夢を見ますの」

「どんな?」

淡々とした、けれど私の答えを促すような拒絶のない静かな問い。


「……アカデミーの夢です」

意識を逸らそうとしても。

瞼を閉じればアカデミーでの日々が鮮明に溢れ出してくる。




光が降り注ぐ中庭。

紅茶の香りが漂っていた穏やかな午後の学生会室。


そして。


慈しむような眼差しで私を見つめ優しく名前を呼ぶ、

フレデリック。

その声を思い出すだけで、胸が締め付けられる。


心臓を直接握り潰されたような、鋭い痛みが走る。

あの日々に。

誰も泣いていなくて何も壊れていなかった、あのありふれた幸福な日常へ。




帰りたい。

あの場所へ。

何も壊れていなかった頃へ。




今すぐ立ち上がって馬車を走らせ、彼の元へ駆け戻りたい。

彼の名を呼びその温かな胸に顔を埋めて、すべてが悪い夢だったのだと泣きじゃくりたい。

そんな、叶うはずのない祈りが喉元まで込み上げてくる。


「……戻りたい、と思ってしまいました」

ぽつりと零れた本音。


夜の静寂に吸い込まれるような、あまりにも無防備であまりにも切実な言葉。

その瞬間だった。


窓辺の花瓶が、パキリと凍りつく。


宿の主が手向けてくれたであろう、素朴な陶器の花瓶。

その中の水が一瞬で白く濁り、活けられていた野花が命を奪う冷たい霜に包まれていく。

私の“願い”が周囲の熱を奪い去り、世界を静止させた。


私は息を止めた。

全身の血が凍りついたような感覚に、思わず身を強張らせる。




駄目だ。


私が「戻りたい」と願うことさえ、この身に宿る魔力にとっては破壊を引き起こすための冷徹な引き金でしかない。

感情が揺れるだけで周囲が壊れる。


私の愛も、後悔も、慈しみも。

すべてはただの暴力に成り果ててしまった。

心臓が動くたびに私は誰かの居場所を奪い、世界を凍てつかせていく。


「……ほら」

私は自嘲気味に笑う。

凍りついた花瓶を指し示した私の指先も、感覚を失うほど冷え切っていた。


「こんなものですわ」

帰りたいと願うだけで、近くにある小さな命を傷つける。

会いたいと願うだけで、誰かの平穏を根こそぎ奪い去ってしまう。

私の存在そのものが、愛する人にとっての最大の脅威なのだ。


ならば、戻れるはずがない。

戻っていいはずがないのだ。


ルーカスは何も言わない。

彼は「大丈夫だ」という嘘も気休めの言葉も、決して口にしない。

ただ、静かに凍った花瓶を見つめていた。


感情の読み取れない無機質な瞳。

その徹底した沈黙が逆に苦しかった。


「そんなことはない」と否定されるよりも「いつか戻れる」と励まされるよりも。

逃げ場のない現実を突きつけられているようで。




遠くで雷が鳴る。


地響きのような低い音が、窓硝子をガタガタと震わせた。

私は膝を抱えて小さく目を伏せた。

逃げ場のない自分自身の冷え切った腕を、せめてもの拠り所として掴む。




帰りたい。

会いたい。

触れたい。


あなたのその大きな手に触れて、もう一度だけ、ただのレティシアとして笑いたい。

あの温かな日向の中で、明日を夢見たい。




けれど、その願いこそが誰かを壊してしまう。


私の熱望が、あなたの命を凍らせてしまう。

私の執着が、世界を終わらせてしまう。


だから私は、もう戻れない。

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