共犯者
夜になり、時計塔の最上階には石造りの壁を叩く激しい雨音だけが絶え間なく反響していた。
私は結露で白く曇った窓辺へ寄りかかったまま、視界の効かない闇の向こうをぼんやりと眺める。
術式が刻まれた硝子は、外の世界と私を隔てる絶対的な境界線としてそこに存在していた。
───前世では、もっと穏やかに歳を取るはずだったのに。
ふと、遠い記憶の断片が脳裏をよぎる。
温かな陽だまり。
誰かの笑い声。
愛する夫と遥菜に囲まれて、夕飯の献立を悩むような……そんなありふれた日常。
特別な力なんてなくてもただ隣に誰かがいるだけで満たされる、そんな穏やかな老後を迎えるのだと信じて疑わなかった。
けれど、今の私はどうだろう。
雨音だけが静かに冷たく響くこの檻の中で、私は人間ですらなくなろうとしている。
溢れ出す魔力は私という魂を内側から食い荒らし、触れるものすべてを拒絶する氷の彫像へと作り変えていく。
「眠れませんか」
背後から、低く湿り気を帯びたルーカス先生の声が届いた。
「……最近ずっとですわ。目を閉じれば、自分が自分でなくなるような感覚に襲われて」
「でしょうね。あなたの魔力密度は、すでに常人が意識を保てる限界を超えつつあります」
彼は音もなく歩み寄り、私の隣へと立った。
肩が触れそうなほどに近い。
けれど、不思議と苦しくはないのだ。
フレデリックが近づいた時に感じるあの焼けるような拒絶反応も、胸を締め付けるような軋みも、彼を前にすると影を潜める。
それが、今の私には少しだけ怖かった。
「先生」
「はい」
「どうして、逃げないのです? ここに居ればいつか貴方も凍りついてしまうのに」
ルーカス先生は窓に映る自分の姿を見つめるように、少しだけ目を細めた。
「逃げろと言われれば、今すぐにでも逃げますよ。私はそれほど命知らずではありません」
「……ふふ、嘘ですわね」
「ええ。嘘です」
即答だった。
あまりにも潔いその肯定に、私は思わず小さく笑い声を漏らした。
世界から切り離され己の破滅を待つだけのこんな絶望的な状況なのに、どうして私は笑えるのだろう。
「……おかしいですわね、本当に」
「何がです?」
「世界が、私という存在が終わろうとしているのに……先生と話していると、不思議と心が静かになるのです。あんなに騒がしかった魔力まで、凪いでいくような気がして」
ルーカス先生は答えない。
ただ静寂が支配する部屋の中で、私の頬に張り付いた乱れた髪へ、躊躇いなく静かに触れた。
その指先は、今の私の体温と同じように冷たい。
でもその冷たさが、今の私には何よりも深く、優しく安心できた。
「レティシア」
「はい」
「私は、あなたを救いません」
静かな、どこまでも平坦な声。
「あなたを正しい場所……あちら側の、光の当たる場所へ連れ戻そうとも思いません。そんな権利は誰にもない」
私はゆっくりと目を伏せる。
救わないという言葉が、これほどまでに救いとして響くなんて。
「……ええ。存じておりますわ」
「ですが地獄の底まで、最後まであなたの傍にはいます。あなたが完全に壊れ、形を失うその瞬間まで」
その言葉だけで頑なに強張っていた胸の奥が、氷が解けるように少しだけ緩んだ。
ああ、そうか。
この人は、もう私の導き手たる教師ではないのだ。
私に正しい道を説く者でも、救済を強いる聖者でもない。
私の破滅を。
この“レティシア”という人間が冷たく美しい灰に変わるその最期を、誰よりも近くで静かに見届ける“共犯者”なのだ。
窓の外では、依然として雨が降り続いている。
けれど、隣に立つ彼の冷たい気配だけが。
私をこの残酷な夜に繋ぎ止めていた。




