異常
その異変は、最初はあまりにも些細な見過ごしてしまいそうなほど小さな予兆だった。
「……何か少し肌寒くないか?」
誰かが不可解そうにそう呟いた、その瞬間。
窓から差し込む陽射しとは裏腹に。
廊下の滑らかな大理石の上へ、白い霜が生き物のように薄く速く広がっていった。
私は思わず足を止める。
重いドレスの裾が揺れ、靴音と共にパキ、と薄い氷が踏みしだかれ軋む音が静かな廊下に響いた。
───また……また、溢れ出している。
胸の奥が、鉛を流し込まれたように重い。
もはや意識して魔術を行使せずともただ息をするだけで、私の内側から制御を失った魔力が毒のように漏れ出している感覚がある。
抑え込もうと固く固く心を閉ざすほどに、それは逆に内側の圧力を高め、逃げ場を求めて膨張していくのだ。
「レティシア様……?」
私の数歩後ろを歩いていた令嬢が、何かに怯えるように不安そうな声をかけてくる。
私がゆっくりと振り返ったその瞬間だった。
彼女が手に持っていた実習用の魔導照明が、ぱちりと乾いた火花を散らし異音を立てて停止した。
一瞬にして周囲の空気が凍りつく。
「……っ」
少女は真っ青な顔で息を呑み、本能的な恐怖に突き動かされるように一歩後ずさった。
廊下にいた他の生徒たちも異変に気づき、遠巻きにざわめき始める。
「今の……見た? 魔石の光が消えたわ」
「また魔道具が壊れた……。これで今週、何度目かしら」
「最近、レティシア様の周りでおかしくない? 常に空気が刺すように冷たいというか……」
「まさかレティシア様、何か恐ろしい呪いでも……?」
針のように細く、けれど鋭い小さな囁き。
けれど、そのどれもが私の薄氷のような胸へ容赦なく突き刺さった。
───最近。
そう、最近。
私の近くでは説明のつかない異常が頻発していた。
魔道具の突然の停止。
通り過ぎたそばから黒ずんで萎れていく植物の枯死。
そして、室内にあっても吐息が白くなるほどの急激な温度異常。
偶然だ、体調が優れないだけだという言い訳では、もう誰一人として、私自身ですら誤魔化せはしない。
「……失礼しますわ」
私はそれだけを短く言い残し、逃げるようにその場を去った。
背後から無数の、けれどはっきりとした“怯え”を孕んだ視線が追ってくるのが分かる。
まるで、触れてはならない忌むべき化け物を見るような目。
実際、私はもう普通ではないのだろう。
内側から壊れ、周囲を侵食し始めているのだから。
───……
その日の午後には学生会室で、未処理の書類へ指を伸ばした瞬間に机の上に置かれていた数本のインク瓶が一斉に音を立てて凍りついた。
パキパキ、ピキ、と結晶が走り。
中身が膨張してガラスを内側から圧迫する音が、静まり返った室内に異様に大きく響き渡る。
「レティ!?」
対面に座っていたフレデリックが、弾かれたように椅子を蹴って立ち上がった。
私は反射的に、熱い鉄に触れたかのように手を引っ込める。
「申し訳ありません……。少し、魔力が乱れているだけですわ。すぐに収まります」
「少しではないだろう。今のは明らかに異常だ。レティ、君の身体はどうなっているんだ」
低い、けれど切実な声だった。
彼は決して怒っているわけではない。
ただ、その瞳には私を案じる色だけが浮かんでいる。
その優しさに、私の胸の奥がまた悲鳴を上げるように軋んだ。
「医師を呼ぼう。今すぐに王宮から最高の魔導医師を呼び寄せる」
「結構です」
「レティ!」
「……大丈夫ですわ、殿下」
真っ赤な嘘だった。
大丈夫なはずがない。
廊下を歩くだけで足元が凍り、誰もいない場所でも魔導具が機能を止める。
感情がほんの少し不規則に揺れるだけで、私の意志を無視して魔力が漏れ出す。
そして何より。
───怖い。
周囲の視線ではない。
内側から私を侵食し私という存在を根底から書き換えようとしている、正体不明の自分自身が怖くてたまらなかった。
───……
その日の夜。
人目を避け一人自室に戻り鏡の前に立った瞬間、私は呼吸を忘れて立ち尽くした。
鏡の中の私は、いつも通り完璧に整った公爵令嬢の姿をしている。
けれどその白い肌を透かすように、ひび割れた硝子のような魔力の筋が全身を駆け巡っている感覚があった。
目には見えずとも、魔力の残滓が皮膚のすぐ下で暴れ狂っているのが自分にはっきりと分かる。
私は震える指先で、鏡の中の自分へ恐る恐る触れる。
指先が鏡面に触れた瞬間。
鏡面が音もなく真っ白な霜に覆われ、瞬く間に凍りついた。
映し出されていた私の姿は、白く濁った氷の壁の向こうへと消えていく。
「……ああ」
そこでようやく、残酷なほど明確に理解してしまう。
もう、戻れない。
かつてのように朗らかに笑って、誰かと手を取り合い並んで、穏やかな日常の陽光を浴びて生きることは。
侵食されていく胸の奥へ、重く、冷たく、静かな絶望だけが沈んでいった。
私という器が内側から溢れ出す力によって完全に壊されるその時が、すぐそこまで来ているのだと悟りながら。




