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壊れる寸前

今日は朝から胸騒ぎがしていた。

明確な不吉の予兆があるわけではない。

けれど皮膚の裏側を冷たい針でなぞられるような、あるいは身体の奥底で巨大な歯車が無理やり噛み合わずに軋み続けているような。

得体の知れない不快感が消えなかった。

まるで、極限まで薄く引き伸ばされた繊細な硝子細工の中へ濁った泥水を無理やり流し込み続けているような、そんな不安定な感覚。


私は学生会室の書類が山積した机へ向かったまま、悟られないよう小さく息を吐いた。


───駄目だ。

集中力がこれほど乱れるなんて。


昨夜もほとんど眠れなかった。

瞼を閉じるたび、網膜に焼き付いたフレデリックの優しい声とエレノアの汚れなき無垢な笑顔が、鮮明な色彩を伴って脳裏へ浮かぶ。

そしてそのたび連動するように胸の奥で魔力が不規則にざわめき、血管を凍らせていくのだ。


「レティ?」

不意に名前を呼ばれ、私は肩を震わせた。

顔を上げると、向かいの席に座るフレデリックが手にしていたペンを置いて心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「……また顔色が悪い。さっきから同じページを捲れずにいるだろう」

「……問題ありませんわ。少し、昨晩の読書が過ぎただけです」

「問題がない人間は、そんな痛々しい顔をしない」


穏やかで、包み込むような口調。

そこには私を責める響きなど欠片もない。

ただ純粋に心から私を案じ、案じるがゆえの言葉。

それが今の私にとっては何より毒々しく、息の根を止める凶器のように苦しかった。

彼はゆっくりと救いの手を差し伸べるように私の隣へ歩み寄る。


「昨夜も眠れていないんだろう? 隈が少し目立っている。無理をしてはいけないよ」

「……少し、考え事をしていただけですわ。本当に──」

「レティ」


制止するような、静かな声。

次の瞬間、フレデリックの手が私の頬へと吸い寄せられるように伸びた。

熱を測るような、婚約者としてのごく自然な慈愛に満ちた仕草。

その指先が私の肌に触れるか触れないかという、その瞬間だった。




───パキリ。


不吉な破裂音が、静まり返った室内に響いた。

机の上に置かれていた硝子ペンへ一筋の白い霜が走り、粉々に砕け散った。

「っ……!」


空気が、凍りついた。

暖かな陽射し差し込む室内だというのに、肌を刺すような鋭い冷気が渦巻く。

私の指先からは制御を完全に離れた青白い魔力の火花が、拒絶の意思そのものとしてパチパチと散っていた。


「レティ!?」

フレデリックが驚愕に目を見開く。

私は反射的に椅子を引きずって大きく後ずさった。

呼吸が浅く、喉を掻きむしりたくなる。

心臓が耳のすぐ側で鳴っているかのように、うるさいほどに脈打っている。


駄目だ。

彼にその正しい愛に触れられると、私は今度こそ粉々に壊れてしまう。


「……来ないで」

掠れた声が、自分のものとは思えないほど冷たく響いた。

けれどフレデリックは逃げる私を追い詰めるように、むしろ心配を募らせて距離を詰めてくる。


「どうしたんだレティ。大丈夫だから、落ち着いて──」

「来ないでください……!!」

叫んだ瞬間、私の意志とは無関係に机の端に置かれていたティーカップが鈍い音を立てて底から凍りついた。

室内の温度が劇的に一気に下がる。

窓硝子へは複雑な模様を描く霜が走り、積まれていた紙束が冷気の突風を受けてばさりと部屋中に舞い散った。

彼が息を呑み、伸ばした手を宙で止める。


私は、自身の震える腕を強く自らを傷つけるほどに抱き締めた。

怖い。

彼が怖いのではない。

殿下を前にして、これほどまでに醜く暴走し拒絶を露わにする自分自身が、恐ろしくてたまらなかった。


「レティ……」

それでも彼は、なおもこちらへ手を伸ばそうとする。

どこまでも優しい人だ。

こんな化け物じみた魔力を見せつけられ冷たく拒絶されても、なお私という器を心配してしまう。


だから、駄目なのだ。

その際限のない正しすぎる優しさが、私の壊れかけた内側をさらに致命的に壊していく。


「お願い……ですから……」

喉が痙攣するように震える。

「これ以上、優しくしないでください……っ」


フレデリックの表情が凍りついた。

鋭い刃で斬られたような、そんな顔。

私はその顔を見ていられなかった。

謝罪の言葉すら口にできず、踵を返し学生会室を飛び出した。


背後でフレデリックが悲痛な響きで何かを呼ぶ声がした。

けれど、もう立ち止まれない。

振り返れば、そのまま崩れ落ちてしまう。


廊下を駆け抜け、螺旋階段を駆け下り。

気づけば私は、人影の絶えた北棟へと向かっていた。

頭で考えていたわけではない。

ただ、私という“私”を守るために身体が勝手に、唯一呼吸ができる場所へと逃げていた。




───……


図書室。

重い扉を開け薄暗い静寂の中へ足を踏み込んだ瞬間、肺の奥に溜まっていた熱が少しだけ逃げていきようやく呼吸が戻り始める。

荒い息を整えながら、私は吸い寄せられるように奥の閲覧席へと辿り着いた。


そこにはいつものように、世界から切り離されたかのような静謐さを纏ったルーカス先生がいた。

「……随分な顔ですね。まるで、この世の終わりでも見てきたかのような」

穏やかで、抑揚のない声。


私は、答えられなかった。

膝の力が抜け、そのまま椅子へと崩れ落ちる。

ルーカス先生は読みかけの本を閉じ、静かに、射抜くような瞳でこちらを見る。


だが、何があったのかは一切聞かない。

どうしてそんな無様な姿で逃げてきたのかも、問い質さない。

ただ、騒がず慌てず憐れまず、ただそこに“壁”のように存在している。

その静けさに張り詰めていた心が、少しずつ少しずつ解けていくのを感じた。


「……先生」

「はい」

「私は……」


言葉が続かない。

最低だ、と思う。

あれほど尽くしてくれるフレデリックを、あんなにも深く傷つけた。

差し出された最上の優しさを、汚らわしいもののように拒絶した。


なのに今、私は彼を傷つけた直後にここへ来て、この静寂の中で安心している。

そんな自分がひどく醜く、救いようがないほどに情けなかった。


ルーカス先生は小さく、けれど深い息を吐いた。

「レティシア嬢」

「……」

「今は自分を裁くより先に、まずはただ呼吸をなさってください」


静かな、何の色もついていない声音だった。

救おうともしない。

慰めようともしない。

けれど、今の私の醜さを否定もしない。


私はゆっくりと熱を帯びた瞼を閉じた。

図書室の薄闇は、今日も何も問いかけてこない。

その沈黙に傷口を浸すように縋りながら、私は小さく息を吐き出した。


遠くの時計塔から授業の終わりを告げる鐘の音が響く。

それはまるで、壊れる寸前の私へこの偽りの平穏が終わるための秒読みを告げる宣告のようだった。

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