愛という名の熱
魔力制御室はひどく静かだった。
磨き上げられた石造りの壁面には淡い青白い魔石の灯火がはめ込まれ、冷徹な光を投げかけている。
空気中には過剰な魔力を中和するための微かな冷気が漂い、肺の奥まで凍てつかせるような感覚があった。
本来ここは魔力暴走の危険がある生徒や、制御が未熟な年少者のための簡易測定室だ。
まさか、十数年にわたり完璧な制御を誇ってきた自分が利用する側になるとは思わなかった。
「……力を抜いてください、レティシア様。ありのままの波形を測定する必要があります」
宮廷付きの魔術医師が、眉間に深い皺を刻みながら慎重な声で言う。
その瞳には、得体の知れない怪物を見るような戸惑いが混じっていた。
私は冷たい金属の椅子へ腰掛けたまま、小さく頷いた。
目の前に差し出された、測定用の純度の高い魔石。
そこに指先が触れる。
その瞬間。
ぱきり、と乾いたけれど暴力的な音が鳴り響いた。
「っ……!」
魔石の表面へ瞬く間に細かな、けれど深い亀裂が走り内部から不気味な青い光が漏れ出す。
室内を囲んでいた補助魔術師たちが、一斉に息を呑んだ。
「……反応が強すぎる。出力の数値が安定しません」
「感情波との同期率が異常だ。まるで、魂そのものが悲鳴を上げているような……」
医師たちがこちらに聞こえないような小声で、けれど深刻な面持ちで話し合っている。
私はぼんやりとそれを聞きながら、肺に溜まった重たい泥を吐き出すように深く息をついた。
最近、ずっとこうだ。
何気ない瞬間に不意に感情が揺れる。
それだけで、私の内側にある魔力回路が軋みを上げて悲鳴を吐き出す。
抑え込もうとすればするほどそれは反転して熱を持ち、出口を求めて牙を剥き始める。
「レティ」
不意に、背後から聞き慣れたけれど今の私が最も恐れている声が降ってきた。
振り返るまでもない。
重厚な扉を開け、私を案じてここへ駆けつけたのはフレデリックだった。
その声が耳に届いた瞬間、胸の奥がどくりと不吉な脈動を刻んだ。
「検査結果はどうなんだ。彼女の身に、何が起きている」
真っ直ぐな、一点の曇りもない眼差し。
誰よりも私を慈しみ守ろうとする、あまりにも誠実な心配の声。
それだけで、室内の空気が鉛のように重くなる。
逃げ場のない善意が、私の魔力を狂わせる。
「……殿下。どうして、こちらに」
「君が心配でじっとしていられなかった。顔色が悪い。レティ、今日はもう休んだ方がいい」
一歩、彼が距離を詰める。
彼の纏う気高い魔力が私の肌を撫でる。
それだけで呼吸が浅くなり、視界がチカチカと点滅し始めた。
「無理をする必要はない。君の負担になるものは私が全部代わりに背負おう。レティただ私の隣で──」
そこまで聞いた瞬間だった。
脊髄を冷たい針でなぞられるような悪寒が全身へ走る。
頭が割れるように痛い。
胸の奥が、焼け付くように熱い。
苦しい。
───これ以上、その正しすぎる愛を向けないで。
「っ……!」
私の周囲の空間が歪み、青白い魔力が霧のように滲み出す。
あまりの魔圧に周囲の医師たちがよろめき、息を呑んだ。
「レティ!?」
フレデリックがさらに近づこうと、その手を伸ばす。
やめて。
来ないで。
私に触れないで。
そう強く念じた途端、室内の温度が劇的に一気に氷点下まで下がった。
壁際に生けられていた花瓶の花が一瞬でガラス細工のように凍り付き、床には鋭い霜の華が咲き誇る。
私は、自身の震える指先を痛いほどに押さえ込んだ。
───どうして。
どうして、よりによって、フレデリックなの。
こんなにもわ非の打ち所がないほど私を愛してくれている人なのに。
「……っ、は……あ……」
息が、うまく吸えない。
フレデリックが心配そうに私の名を呼ぶたび、私の魔力は彼を敵と見なすように狂暴に反応する。
触れられそうになるだけで精神の結界が崩壊し、私が私でなくなってしまいそうになる。
その極限の苦しみの中で。
唐突に、私は理解してしまった。
───違う、そうじゃない。
私は、殿下が嫌いなわけではない。
嫌悪しているのではない。
怖いのだ。
彼の、一点の曇りもない優しさが。
真っ直ぐに注がれる、あまりにも重い愛が。
大切にされるほど。
期待されるほど。
そのすべてに応えられない自分自身が、内側から激しく軋み始める。
前世の記憶。
愛していたはずの、夫への消えない罪悪感。
今世で担うべき、重苦しい悪役としての役割。
それらすべてがドロドロに混ざり合って、今の私は殿下の清廉な愛へ、正常に触れることができなくなっている。
───フレデリックの愛が。
向けられるその熱が私を内側から焼き、壊している。
その残酷な事実に到達した瞬間、全身から血の気が引いて指先が凍りついたように動かなくなった。
「レティ……? 返事をしてくれ」
フレデリックが、引き裂かれるような苦しげな表情で私を見る。
その顔を見るだけで、罪悪感で胸が締め付けられる。
違うのに。
そんな顔をさせたいわけじゃない。
傷つけたいわけじゃない。
誰よりも貴方を敬っているのに。
なのに、私の魔力は。
貴方を拒絶することしかできない。
「……殿下」
ようやく、ひび割れた声を絞り出す。
「少し、一人にしてくださいませ……。お願い、ですから」
「そんな状態で放っておけるはずがないだろう!」
即答だった。
どこまでも、私を一人にはしないという強い意志。
私を守ろうとする、あまりにも正しい声。
その瞬間、魔力がまた悲鳴のような音を立てて軋んだ。
私は、生理的な恐怖に突き動かされるように咄嗟に大きく後退った。
「来ないで……っ!!」
室内の空気が爆圧を受けたように震える。
背後のガラス容器が粉々に砕け、誰かが悲鳴を上げた。
私は自らから漏れ出す冷気から逃れるように、自分の肩を強く抱き締めた。
違う。
本当は、来てほしい。
誰かに、優しくしてほしい。
愛されたいと、そう願っているはずなのに。
愛されれば愛されるほど、私は内側から崩壊していく。
その救いようのない矛盾に、私はもう一秒たりとも耐えられなかった。
───……
結局、私は半ば逃げるようにフレデリックの制止を振り切って制御室を飛び出した。
周囲の驚愕の視線を背中に受けながら、冷たい石造りの廊下を乱れた呼吸のまま走り続ける。
頭痛が酷い。
視界の端が真っ赤に燃えている。
胸の奥が、氷を飲み込んだように焼けて熱い。
そして何より、理解してしまった答えが刃のように胸を抉っていた。
───フレデリックの愛は。
今の壊れかけた私にとっては、何よりも猛烈な毒だ。
その冷酷な結論だけが、暗い海の底へ沈んでいくように私の心へと深く沈殿していく。
気づけば私は、人影のない古い紙と埃の匂いがする北棟へ向かっていた。
今、この世界で。
他に私が私として呼吸できる場所を、私はもう知らなかった。




