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触れない優しさ

アカデミーに入学してからというもの、自分でも驚くほど心に余裕というものがない。

かつては公爵令嬢としてどんなに困難な状況でも優雅な微笑みを絶やさず、鋼のような自制心で自分を律してきたはずだった。

けれど今、私の内側は目に見えない無数の亀裂が走った薄氷のように危うい。


フレデリックの混じりけのない優しさ。

エレノアの眩しすぎる無邪気さ。

そして私を次期正妃として崇める周囲の重い期待。


それらすべてが白く細い絹糸となって私の首に幾重にも巻き付き、呼吸をするたびにじわじわと、けれど確実に私の喉を締め付けていく。




───……


その日も夕刻の学生会室で書類を捲る私の指先は、自分でも制御できないほど微かに震えていた。

羊皮紙の擦れる音が、耳障りなほど大きく響く。


「レティ、今日はもう休んだ方がいい」

不意に、向かいの席からフレデリックが心配そうに眉を寄せて私を見つめていた。

その瞳には、私を慈しむ情愛だけが深く宿っている。


「顔色がひどく悪い。無理を重ねるのが君の美徳かもしれないけれど、私には見ていられない」

「……問題ありませんわ。これくらいの仕事、すぐに終わります」

「問題があるから言っているんだ、レティ」


どこまでも優しい声音。

私を責める意図など微塵もなくただ純粋に、私の心身を案じて発せられた言葉。

だからこそ、私は逃げ場を失う。

彼の正しさは、私の逃げ道をすべて塞いでしまうのだ。


「今日の作業は私が引き継ぐ。寮まで送ろう。医師にも連絡して休養の処方を出して──」

「結構です!」


思ったよりも鋭く、拒絶に満ちた声が私の唇から弾け飛んだ。


室内の空気が、凍りついたように止まる。

フレデリックが弾かれたように僅かに目を見開いた。

驚きと、そして隠しきれない小さな傷跡のような色が彼の整った顔を掠めていく。

私はすぐに己の失態を後悔した。


「……申し訳ありません。少々、気が立っておりました」

「いや……私の方こそ、レティのペースを考えずに押し付けてしまったね。責めているわけじゃないんだ。ただ私は──」


“レティが心配なんだ”


続くはずだった甘く重い決定的な言葉を耳にする前に、私は椅子を蹴るようにして席を立っていた。

これ以上彼の献身的な優しさに晒されれば、私の心は跡形もなく壊れてしまう。

そんな本能的な恐怖が、私の背中を突き動かした。




───……


逃げ込むようにしていつもの旧図書室へ入り込む。

ひんやりとした薄暗い空気が、異常な熱を帯びていた私の頭を少しだけ冷やしてくれた。


「……今日はまた、一段と酷い顔ですね。幽霊でも見てきたのですか」

静かな声。

窓際の影から、ルーカス先生が読みかけの本をゆっくりと閉じる音が聞こえた。


私は答えず縋るようにその向かいの席へ座った。

深い沈黙が二人を包む。

けれど今日はそのいつもなら心地よいはずの静けさすら、私の心を落ち着かせてはくれなかった。

胸の奥がざわざわと波立ち、行き場のない焦燥感が内側を叩く。


苦しい。

優しくされることも、心配されることも。

完璧であることを求められることも。


「……先生は」

耐えきれず、ぽつりと声が漏れた。

「何故、私に何も聞かないのです。こんな顔をして現れたというのに」

ルーカス先生が一度だけゆっくりと瞬きをする。


「聞いてほしいのですか? あなたが抱えているその事情とやらを」

「そういう意味では……」

言葉に詰まる。

自分でも、自分が何を望んでいるのか分からないのだ。

フレデリックみたいに土足で心の中へ踏み込まれるのは耐え難い。

でも、誰にも何も聞かれず透明な存在として扱われると、それはそれで自分が消えてしまいそうな不安に襲われる。


あまりにも身勝手で、我儘な論理。

私は自分の醜さに、ぐっと眉を寄せた。


「話したくない人間に無理に口を開かせる趣味がありませんので。それは教師の仕事ではなく、尋問官の仕事でしょう」

「……」

「あなたは今“理解してほしい”という渇望と“誰にも踏み込まれたくない”という拒絶を、同時に抱えていますからね。非常に効率の悪い、矛盾した状態だ」


私は息を呑んだ。

一番触れられたくない核心を、あまりにも無造作に見透かされた気がした。

けれど不思議と嫌な気分にはならなかった。

彼がそれを、哀れむべき悲劇としてではなくただの“現象”として述べているからだろうか。


ルーカス先生は視線を窓の外へと向け直す。

「ならば、話したくなるまで待てばいいだけでしょう。あなたは今、無理に言葉にする必要はない。図書室は、ただ黙って座っている人間を拒みはしませんから」


それだけだった。

私を救おうともしない。

私の歪んだ心を正そうともしない。


ただ、私の抱えるドロドロとした面倒な感情を否定も肯定もせず“そういうもの”としてそこに置かせてくれる。

その絶対的な許容に、胸の奥の結び目が少しだけ緩んでいくのを感じた。

私は重い荷物を下ろしたような心地で、静かに目を伏せた。


───ああ。

この人は、私を“理想の型”に嵌めようとしないのだ。

私を変えようとしないのだ。




帰り際、長い影を落とす廊下へ出る手前で私は足を止めた。


「先生」

「はい」

「……貴方は、本当に不思議な人ですわね」

「よく言われます」

「褒めてはおりませんからね」

「でしょうね。分かっています」


暗がりの中でルーカス先生がわずかに口端を上げ、小さく笑ったような気がした。

その乾いた笑い声の軽さに、私は憑き物が落ちたようにほんの少しだけ、肩の力を抜いて夜のアカデミーを歩き出した。

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