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無意識の逃避

庭園を見渡すテラスで開かれた昼食会は終始穏やかだった。

円卓を囲む空気はどこまでも調和しており、フレデリックは完璧な采配で場を回し、同席した貴族子女たちはその細やかな気配りに感嘆の溜息を漏らしている。

その隣では、エレノアが少し緊張で肩を硬くしながらも彼のフォローを受けて懸命に会話の輪へと加わっていた。


何一つ、問題のない光景。

客観的に見れば、それは理想を絵に描いたような美しい貴族たちの社交そのものだった。


「レティ、あまり食が進んでいないようだが。口に合わなかったかな」

不意にフレデリックが私を気遣う視線を向けた。

「……いいえ。少し、陽射しが暑いだけですわ」

「そうか。それなら、後で冷たい飲み物と身体を冷やすための氷菓子を用意させよう。あまり無理をしないように」


即座に、隙のない配慮が返ってくる。

その一切の淀みのない純粋で真っ直ぐな優しさに触れるたび、私の胸の奥は泥を飲み込んだかのように、じわりと重苦しく沈んでいく。


「レティシア様、大丈夫ですか?」

エレノアまでもが心配そうにこちらを覗き込んできた。

その瞳は澄み渡り、私を案じる色に満ちている。


「本当に、さっきから顔色が悪いですよ? どこか痛むなら、すぐに休んだ方が……」

「平気ですわ。少々、寝不足が重なっただけです」

私は唇の端を吊り上げ、笑う。

完璧に。

淑女として、この場に相応しい仮面を貼り付ける。

そうしなければ、この美しく整えられた箱庭の均衡を壊してしまうような気がした。


けれどその瞬間、ふと喉の奥がせり上がり息が詰まった。

この場にいる全員が、私に優しい。

誰も私を傷つけようとしていないし、貶めようともしていない。

悪意のない、透明な善意だけがこの空間を満たしている。


───それなのに、どうしてこんなにここから逃げ出したいほど苦しいのだろう。


「……申し訳ありません。少々気分が優れませんので、先に失礼いたしますわ」


耐えきれず、私は言葉を濁して席を立った。

背後でフレデリックが何か私を呼び止めるような声を漏らしていた気がする。

けれど、私は一度も振り返らなかった。

振り返って彼の悲しげな、あるいは心配そうな顔を見てしまえば、今度こそ自分が崩れてしまいそうだったから。




───……


気づけば、私は北棟へ向かっていた。

あてどなく歩いていたはずなのに、考えるより先に足が特定の方向へと動いていたことに途中の階段で気づく。


旧図書室。

薄暗く静かで、誰も私に役割を求めず、何も求めてこない場所。

そしてそこには大抵の場合、彼がいる。




───私は一体何を考えているんだろう。


重厚な扉の前で、自嘲の混じった溜息が漏れた。

私を心配して追いかけてくる婚約者の善意を振り切り、わざわざ彼のもとへ足を運ぶなど。

この行動を世間が知れば、それこそ正気を疑われるだろう。


けれど今さら引き返す気力もなかった。

私は吸い込まれるように、静かに扉を開けた。




───けれど。

そこには、誰もいなかった。


思わず周囲を見回す。

いつもの窓際の席。

先生が資料を広げているはずの机。

山積みになった読みかけの書類。

そのすべてが綺麗に片付けられ、あるいは主を失ったまま静止していた。

ただ静まり返った図書室だけが、空虚に広がっている。


それだけのことなのに、胸の奥が妙に落ち着かずざわついた。

私はゆっくりと、いつもの向かいの席へ腰を下ろした。

鞄から適当な本を取り出し、無理やり視線を落とす。


けれど、文字はただの黒い記号となって滑っていくばかりで一向に頭へ入ってこない。

無意識に、扉の方へと耳を澄ませてしまう。

廊下で風が吹く音、遠くで生徒が歩く物音がするたびに、私の視線は期待するように扉へと動く。




───馬鹿みたい。


私は自分に呆れて、眉を寄せた。

ただ、ルーカス先生が不在なだけなのに。

それなのに。

どうしてこんなにも、自分の居場所を見失ったような居心地の悪さを感じるのか。

まるで、呼吸の仕方を誰かに教わらなければ思い出せない子供になってしまったみたいに。




───私は、何をしているの。


自己嫌悪が澱のように胸へ沈む。

ルーカス先生は、私に何かをしてくれるわけではない。

優しい言葉で慰めてくれるわけでも、進むべき道を導いてくれるわけでもない。

ただ、そこに静かに佇んでいるだけだ。


それなのに私は沈黙を求めて、縋るようにここへ来ている。

その事実が、どうしようもなく情けなかった。




───……


どれくらい時間が経っただろうか。

西陽が書架を長く引き伸ばし始めた頃、不意に背後で静かに扉が開く音がした。


「……今日は随分早いですね」


弾かれたように顔を上げる。

ルーカス先生だった。

手には数冊の資料を抱え、いつも通りの感情を排した静かな顔。

まるで、私がここに座っていることなど昨日と同じ光景の一部でしかないかのように。


「先生……」

「珍しいですね。そんな顔をして」

「どんな顔ですの。……疲れているだけですわ」

「…飼い主に置いていかれた不機嫌な猫のような顔です」

「……先生は本当に、失礼ですわね」


言い返すと、ルーカス先生がわずかに口端を上げ少しだけ笑った。

それは嘲笑ではなく、確かな許容を含んだ微笑みだった。


その瞬間。

胸の中で暴れていた黒いざわつきが、雪解け水が引くようにすっと静まっていくのを感じた。

私は毒気を抜かれたように、小さく視線を伏せた。




───本当に、私は何をしているのだろう。

ルーカス先生の言葉に、安堵してしまうなんて。




───……


夕暮れの図書室。

窓から差し込む光はオレンジ色から茜色へと移ろい、ページを捲る乾いた音だけが時計の針の音のように静かに響く。


私は本を開いたまま顎を手に乗せて、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

影が伸び世界が闇に包まれていくのを、ただ静かに見つめる。


その向かいで、ルーカス先生は何も聞かない。

どうして昼食会を抜け出してここへ来たのか。

なぜ泣き出しそうな、あるいは叫び出しそうな顔をしているのか。

何一つ聞いてこない。


その徹底した踏み込まなさに、ひどく安堵している自分がいた。

そして同時にそんな“逃げ場”に依存し始めている自分自身が少しだけ、怖かった。

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