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明日も

最近、自分でも驚くほど自然に足が向く場所がある。


それは華やかな中央校舎から離れた、北棟の最上階。かつては学問の拠点だったが、今は新築された図書棟にその役割を譲り、埃と静寂だけが堆積している旧図書室だ。


そこは薄暗く静かで、世界から切り離されたように時間だけが取り残された空間だった。

高い天井まで届く書架は西陽を遮り、冷ややかな空気を溜め込んでいる。

重い扉を押し開けその中へ辿り着くたび、私の胸へ何重にも絡みついていた見えない糸が、少しだけ緩む気がした。




「……また来たのですか」

窓際の陽光がわずかに差し込む席で本を読んでいたルーカス先生が、顔も上げずに言う。


「来てはいけませんの? ここは公共の場所のはずですが」

「いいえ。ただ最近、あまりに頻繁だと思っただけです。ここを私室か何かと勘違いしているのではないかと疑いたくなるほどに」


淡々とした、抑揚のない声。

そこには私の家柄を慮るような媚びもなければ、淑女の不作法を窘めるような教育的熱意もない。

ただ事実を温度のないままに提示する。

その一定に保たれた温度が、今の私には何よりも心地良かった。


私は彼の向かいの席へ、流れるような動作で腰を下ろした。

誰に見られているわけでもないのに、癖のように背筋を伸ばし鞄から自分の本を取り出す。

形式的にページを開き、文字を目で追う。


けれど、黒い活字は網膜を滑り落ちるだけで少しも頭へ入ってこなかった。

視界の端で、私の真っ白な指先が微かに震えている。




───今日は朝から、フレデリックがやけに過保護だった。


廊下を移動する際の足取りを気遣い、ドレスの裾が汚れぬよう、あるいは誰かとぶつからぬよう常に護衛のように寄り添う。

講義で座る席は私の体調を考え、陽射しが強すぎず冷えもしない特等席がすでに手配されている。

用意される昼食の内容も、近頃の私の食の細さを案じて、栄養価が高く口当たりの良いものばかりが並べられる。

そして、ほんのわずかな休憩時間でさえ、「疲れただろう」と優しい言葉をかけに来る。


そのすべてを、彼は“私のため”という完璧な名目のもとに淀みなく整えてくれる。

それは誰もが羨むような、王家からの最上級の慈しみであり、非の打ち所がないほど優雅で誠実な愛情表現だった。


───なのに、どうして。

その手を差し伸べられるたび、私の喉元まで胃液がせり上がってくるような、凄まじい息苦しさを感じるのだろう。

彼の優しさは、私をどこまでも安全な場所に囲い込み、一歩も外へ出さぬようにゆっくりと、けれど確実に窒息させていく。


「……レティシア嬢」

不意に、頭上から静かな声が降ってきた。

意識が、過去の回想から現実へと引き戻される。


「今日は随分、顔色が悪いですね。」

「……先生まで、そんなことを仰るのですね。皆、私の顔色を伺ってばかりだわ」

「皆そう言っているのでしょう? ならば、鏡を見ずとも自分の状態は理解できているはずだ」


私は答えなかった。

「大丈夫です」と微笑む力さえ今の私には残っていなかった。

それを認めれば、辛うじて保っている公爵令嬢という名の皮殻が一気に砕けて散ってしまうような気がしたから。


ルーカス先生も、それ以上は踏み込んでこない。

どうしてこれほどまでに疲弊しているのか。

誰の優しさが私を追い詰め、どんな孤独に苛まれているのか。


彼は何も尋ねてはこない。

私の内情に立ち入り共感しようとする厚かましさも、慰めようとする傲慢さも、彼にはなかった。

ただ、乾いた紙を捲る音だけが部屋の中に一定のリズムで響く。



しばらくして、ルーカス先生が重厚な革表紙の本を閉じた。

その音が、静かな室内に重く響く。

「少し休まれては?」

「平気です」

「そういう強がりが似合わない顔をしていますよ」

「……先生は時々、本当に、救いようがないほど失礼です」

「教育者として事実に忠実であるように努めているだけです」


さらりと感情を交えずに返され、私は毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。

その吐息と共に、不自然に強張らせていた肩の力が、ふっと抜けていく。


「……ここは、本当に静かですわね」

独り言のように、ぽつりと零す。

夕暮れの残光が、空中を舞う埃を金色に染め上げている。


「図書室ですからね」

「だから、その情緒のない返しは嫌いだと申し上げたでしょう」


ルーカス先生が僅かに目を細めた。

それは微笑と呼ぶにはあまりに微かな変化だったが、不思議と私の心を凪がせた。

それ以上、会話は続かない。

けれどその隙間を埋める必要を全く感じない沈黙は、今の私にとってどんな甘美な旋律よりも優しかった。




───……


帰り際、長い影が伸びる廊下へ出ようとして私は重い扉の前でふと立ち止まった。


「先生」

「はい」

「……もし私が、ここへ来る理由を話さなくても」


言葉を探す。

自分の胸の内にある、この“正しさへの拒絶”や“善意への恐怖”というドロドロとした感情をどう定義すればいいのか、私にはまだ分からない。


ルーカス先生は急かさなかった。

手元の書類を鞄に収める手を止め、ただ静かにこちらを見つめている。


「……それでも、またここへ来ても、構いませんか。何も話さないままの私で」


ようやく絞り出した声。

問いかけというよりは最後の避難所を求める祈りに近いその言葉に、彼は少しだけ視線を和らげたように見えた。


「図書室は誰にでも開かれていますよ」

それだけだった。

特別扱いもしない。

過度な期待も、哀れみも、引き留めもしない。


けれど私は、言葉に妙に安堵してしまう。

まるで、何者でもない自分のまま空虚な自分を抱えたまま“ここにいてもいい”と許された気がした。


夕暮れに染まった燃えるような朱色の長い回廊を歩きながら、私は小さく目を伏せた。

背後で閉まった扉の重みを感じる。


───また明日も、ここへ来よう。

そう思ってしまった時点できっともう、正しくあるべき私の未来は少しずつ歪み始めているのだろう。

けれど、胸の奥で疼くその静かな予感は不思議と恐ろしくはなかった。

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