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演じなくていい場所

交流会の準備が本格化してからというもの、私は目に見えて疲弊していた。


公爵令嬢として、他家の令嬢たちに範を示すべく背筋を伸ばし続ける緊張感。

次期王妃の座を約束された婚約者として、フレデリックの隣に相応しい微笑みを絶やさない義務感。

そして山積みになる学生会の事務作業。

それらすべてが目に見えない幾千もの糸となって私の手足を縛り、自由な呼吸を奪っていく。


けれど何よりも私を削っていたのは、目に見える仕事ではなかった。

彼とエレノアが並び、ただ笑い合っている。

それだけで完成されてしまうあの眩い光景を見るたびに、私の胸の奥は鋭利なガラス片で無慈悲に掻き回される。

整理のつかない感情は出口を見つけられぬまま黒く濁り、私の内側を浸食していった。


何一つ言葉にできず、誰にも弱音を吐けず、解決策も見当たらないまま、ただ疲労だけが重たい泥のように心に積み重なっていく。

その日も、アカデミーに終業を告げる夕刻の鐘が遠く鳴り響く頃には、私は魂の抜け殻のようになっていた。

気づけば、足は導かれるようにいつもの場所へ向かっていた。

図書室の最奥へ。




───……


そこは古い羊皮紙と革の匂いが混ざり合った、沈黙が支配する空間。

外界の喧騒や誰かの期待に満ちた眼差しが一切届かない、墓標のように静かな場所。

重厚な書架の影に隠れた閲覧席に辿り着いた瞬間、限界まで張り詰めていた心の糸が、不意にプツリと切れた。


「……っ、ふぅ……」

震える吐息が漏れる。

それだけで、膝の力が抜けそうだった。


「……随分と、ひどい顔をして来ますね。鏡を見る余裕もなかったのですか」

静かな声が、影の中から響く。

顔を上げると、そこにはいつものようにルーカス先生が古びた魔導書を開いたまま座っていた。


「先生こそ相変わらずこんな時間まで。……お邪魔でしたか?」

「私はいつもここにいますよ。あなたが来ようが来まいが、図書室の空気が変わるわけではありませんから」

そう言って彼は再び手元の本へと視線を落とした。

追及はされない。

「どうしてそんなに疲れ果てているのか」とも、「中庭で何を見たのか」とも、何も聞かれない。

ただ私がそこに存在することを、背景の一部であるかのように受け流してくれる。

その慈悲に、私はひどく安堵していた。


私は彼の向かいの席へ、倒れ込むように腰を下ろした。

指先に触れた適当な本を棚から抜き取り、開く。

けれど、活字はただの黒いシミとなって目の前を滑っていくだけだった。

ページを捲る乾いた音だけが、等間隔に心地よいリズムで響く。


不思議だった。

沈黙しているのに、全く苦しくない。

誰かと一緒にいてこれほどまでに呼吸が深く楽なのは、いつ以来だろうか。

ここでは、誰かを繋ぎ止めるために言葉で自分を飾る必要も、他人の期待に合わせるために完璧なレティシアを演じる必要もない。

ただ、そこに在ることだけを許される贅沢。


心地よい静寂に包まれているうちに、まぶたが重くなっていく。

微かな紙の匂いと、ルーカス先生が時折さらさらとペンを走らせる音。

その規則正しい知的なリズムに引きずられるまま、私の意識は深い闇の底へと落ちていった。




───……


「……レティシア嬢。そろそろ閉館の時間ですよ。ここで夜を明かすつもりですか」

穏やかな声で目が覚めた。

顔を上げると視界に入ってきたのは、窓の外に広がる濃い夕暮れ色…いや、すでに星が瞬き始めた群青色の夜だった。


「……私、寝て、いましたの?」

「ええ。驚くほど無防備でした。公爵令嬢としての警戒心は、図書室の入り口にでも置いてきたのですか」

「……起こしてくださいませ。教師の前で居眠りだなんて、恥をかきましたわ」

「あまりにも安らかな顔で寝ていたので。起こして不機嫌になられるのが少し、業腹だっただけです」


それだけだった。

私の醜態を深く責めることも、居眠りの理由を問うこともない。

私はまだ眠気の残る眼で、ぼんやりと彼を見つめた。

ルーカス先生はいつも通り、静かな顔で読み終えた書類を整然と整理していた。

その無機質で、けれど揺るぎない横顔を眺めていると、日中に胸の中で荒れ狂っていた嫉妬や焦燥といったざわめきがまるで嘘のように遠のいていく。


「……先生」

「はい」

「ここは、本当に……静かですわね。まるで、時間の流れから取り残されたみたいに」

「図書室ですから。何度言わせれば気が済むのですか、レティシア嬢」

「そういう物理的な意味を言っているのではありませんわ」


ルーカス先生が小さく笑った。

「では、どういう意味です?」

私はすぐには答えられなかった。

けれど、心の深層では理解していた。

ここだけは、世界で唯一、私が“王太子の完璧な婚約者”という役柄を演じなくていい場所なのだ。

“高潔な公爵令嬢”という重苦しい鎧を脱ぎ捨てて、ただの名前もない“私”として存在することを許される場所。

フレデリックに見せる“笑顔”ではなく、エレノアに見せる“威厳”でもない。

何者でもない自分のまま、ただ呼吸ができる場所。


それを明確に認めてしまうのが、今の私には少しだけ怖かった。

一度その心地よさを完全に知ってしまえば、もう二度と外の世界の役割に戻れなくなるような気がして。

けれど。


窓の外で、最後の一筋の夕陽が完全に地平線へと沈んでいった。

私はその心地よい薄闇の中で、生まれて初めて、自分自身の内側から湧き上がる明確で静かな意志を感じていた。


───また明日も……ここへ、来たい。


その願いが、これからの私をどこへ連れて行くのか。

その先にどんな破滅が待っているのかは分からない。

けれど私は、開いたままの本をそっと名残惜しそうに閉じながら、彼と共に静寂に包まれた夜の学園へと歩き出した。

冷たい夜風が頬を撫でたが、その時の私の胸は不思議なほど凪いでいた。

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