善意の窒息
朝から、身体が重かった。
熱があるわけではない。
けれど胸の奥に冷たい鉛でも流し込まれたような、逃げ場のない倦怠感が抜けず、鏡の前に立つだけで肺が圧迫されるような感覚に陥る。
「お嬢様、お顔色が……」
着替えを手伝う侍女が、不安げに声を漏らす。
「大したことではありませんわ。少し寝不足なだけです」
そう返したものの、自分でも声に覇気がないのが分かった。
鏡の中の私は完璧に整えられているはずなのに、どこか生気のない陶器の人形のように見えた。
教室に到着した頃には疲労で視界が微かに霞み始めていた。
重い足取りで歩みを進めたた、その瞬間。
「レティ」
頭上から、穏やかで澄んだ声が降ってくる。
フレデリックだった。
「やはり顔色が悪いな。朝から嫌な予感がしていたんだ。今日は無理をするべきではない」
「……お気遣いなく。講義くらい、問題ありませんわ」
「問題はあるよ」
きっぱりと言い切られる。
フレデリックは当然の権利を行使するように、自然な動作で私の手を取りそのまま歩き始めた。
「医師はすでに控室へ呼んである。午前の実技講義は見学扱いに変更済みだ。レティの体調を優先するよう、教師にも伝えてある」
「……変更? ですが、私はまだ何も」
「君が倒れてからでは遅いからね。私の判断を信じてほしい」
さらりと告げられた完璧な手配に、私は目を瞬かせた。
私の意志が介在する前に、世界はすでに彼の手によって整えられている。
「それと、午後の予定も調整しておいた。学生会の書類は私がすべて確認しておくから、今日は寮に戻って休んでいてくれ」
周囲の生徒たちが、その様子を見て感嘆の声を漏らす。
「さすが殿下……あんなに鮮やかに手配なさるなんて」
「レティシア様、本当に大切にされているのね。羨ましいわ」
羨望と賞賛。
誰もが、絵に描いたような“理想の婚約者”を見る目をしていた。
その通りなのだろう。
彼は何一つ間違っていない。
私の体調を誰よりも早く察し負担を減らし、先回りしてすべての障害を取り除いてくれている。
優しく、完璧で、非の打ち所がない善意。
それなのに。
───苦しい。
喉の奥が、ひどく詰まる。
気づけば、今日という一日の私の予定はすべて彼によって決められていた。
どこで休み、何を受け、誰と会うか。
私が「大丈夫です」と自分の足で立つ余地すら、白銀の雪が降り積もるように綺麗に消し去られている。
「レティ?」
黙り込んだ私を、殿下が心配そうに覗き込む。
私は慌てて、顔の筋肉を動かして笑みを貼り付けた。
「……ありがとうございます、殿下。お言葉に甘えさせていただきますわ」
その瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
感謝している、本当に。
けれど同時に、檻の中に閉じ込められたような、出口のない閉塞感に喉が焼ける。
そんな罰当たりなことを感じる自分が、何よりも嫌だった。
医務室へ向かう途中、廊下の向こうからエレノアが駆け寄ってきた。
「レティシア様! 大丈夫ですか? 顔色が真っ白ですよ!」
「少し疲れているだけですわ。騒ぎ立てるほどのことでは……」
「無理しちゃ駄目です! 殿下、レティシア様をちゃんと休ませてくださいね! 約束ですよ!」
無邪気な、混じりけのない声音。
フレデリックが困ったように、けれど親しげに苦笑する。
「ああ、そのつもりだよ。彼女は頑張りすぎるからね」
二人の間に流れる空気は、春の陽だまりのように柔らかかった。
自然で、温かくて、眩しい。
私はその光の輪の中に立ちながら、なぜか、独りきりで深い底に沈んでいくような孤独を感じていた。
───……
午後になり、結局ほとんど何もさせてもらえないまま私は逃げるように図書室へ足を向けていた。
静かな奥の閲覧席。
ようやく一人になれたはずなのに、胸を締め付けるような圧迫感は消えない。
本を開く気にもなれず、私は力なく椅子に身を預けてぼんやりと窓の外を眺めていた。
「……今日は随分と反抗的な顔をしていますね」
静かな声。
顔を上げると、いつの間にいたのかルーカス先生が書類の束を片手に立っていた。
「反抗的? 私が、ですか?」
「ええ。誰からも望まれる優しさを与えられているのに、納得できない子供のような顔です。あるいは、毒の入っていない綺麗な食事を不味そうに眺めている偏食家か」
「……先生は本当に、失礼なことばかりおっしゃいますわね」
「否定はなさらないのですか?」
思わず言葉に詰まる。
彼は私の向かいへ音もなく腰を下ろした。
「殿下は、あらゆることを完璧に振る舞おうとなさる方ですからね。それは時として、受ける側にとっては暴力的なまでの正しさとなる」
「……完璧ですわ。殿下は何も間違っておりません。間違っているのは、それを素直に受け取れない私の方です」
「ですが、あなたは息苦しい。そうでしょう?」
その一言に、胸の奥を鋭い針で貫かれた気がした。
私は耐えきれず、視線を逸らす。
「……私がおかしいのです。贅沢で、我儘なだけなのですわ」
「そうでしょうか」
ルーカス先生は、感情を排した淡々とした声で答える。
「人は時々“一方的に守られること”そのものに疲れることがあります。対等な一人の人間としてではなく、庇護すべき愛玩物として扱われ続けることに、魂が拒否反応を起こす。それは贅沢ではなく、生存本能に近い」
私は小さく息を呑んだ。
その、突き放すような、けれど事実だけを認める言葉だけで、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩む。
「……先生」
「はい」
「私、本当に……可愛くない人間ですわね」
「それは分かりませんが……少なくとも、あなたが今苦しいと感じているという事実まで無理に否定しなくていいでしょう。ここは図書室ですから、内心で何を思おうがあなたの自由です」
穏やかで、温度の低い声。
導こうともせず、責めようともしない。
ただ「苦しいと思っていい」と存在を許される感覚。
私は静かに目を伏せた。
窓から差し込む夕闇一歩手前の薄暗さだけが、今は、外の世界の眩しい光よりもずっと呼吸をしやすくさせてくれた。




