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噛み合わない温度

陽射しとは、時に残酷だ。

世界を柔らかく穏やかに包み込み、誰にでも等しく降り注いでいるような顔をしながら。

その温かな輪の中へどうしても入れない者だけを、冷徹なほど鮮明に浮かび上がらせる。

光が強ければ強いほど、その足元に落ちる影の濃さに私は眩暈を覚える。


朝の回廊でフレデリックはいつもの穏やかで非の打ち所がない声音で言った。

「先日の体調不良もあるし、次の講義からは後方の席を使えるよう配慮している。人目も気にならないし移動も少なく済むだろう」

「……そうですか」

「昼食も別室へ変更しよう。レティは最近の人混みが少し苦手そうだから静かな場所で休んだ方がいい」


それは、あまりに自然な口調だった。

押し付ける傲慢さも強制する冷たさもなく、ただ当然の義務を果たすように、私の負担を減らそうと心を砕いている。


完璧だ。

婚約者として、そして次期国王として、これほどまでに思慮深く優しい配慮ができる男性を私は他に知らない。

だからこそ私は、その優しさが作り出す見えない壁の向こう側で曖昧に微笑むことしかできなかった。


「お気遣い、ありがとうございます。……殿下」

その定型文のような返答に、フレデリックは少しだけ端正な眉を寄せる。

「……レティ。君は最近やけに他人行儀だ。何か、壁のようなものを感じる」

「そんなことは。私はいつも通りですわ」

「あるよ」


即答だった。

迷いのない、真っ直ぐな眼差しが向けられる。

逃げ場を塞ぐようなその光は私の内側の淀みを暴こうとしているようで、私は思わず視線を泳がせた。


「何か悩んでいるなら話してほしい。レティが苦しんでいるのに、隣にいる私が気づかないままでいたくないんだ。いいかい? 私は君の味方だ」

優しい声。

本当に、震えるほどに優しいのだ。

けれどその優しさは私の全身を丁寧に薄布で幾重にも包み込むように、少しずつ、けれど確実に私を息苦しくさせる。

その布を剥ぎ取って「苦しい」と叫ぶことさえ、私の我儘であるかのように錯覚させるほどに。


「……考えすぎですわ、殿下。少し寝不足なだけです」

私はそう言って、彼の言葉を振り払うように先に歩き出した。

背中に重い視線を感じる。

けれど今ここで振り返ってしまえば彼の正しさに呑み込まれて消えてしまいそうで、私は振り返ることはできなかった。




───……


昼休みの学園の中庭は、今日も賑やかな活気に満ちていた。

春を謳歌する生徒たちの笑い声が、瑞々しい若葉の香りと共に風に乗って運ばれてくる。

その中心にいるのは、やはりエレノアだ。

「あっ、レティシア様!」


こちらへ気づいたエレノアが、屈託のない笑顔で大きく手を振る。

その瞬間、彼女の周囲にある空気だけが一段と明るく色彩を帯びる気がした。

「見てください、この前レティシア様に教えていただいた刺繍少しだけ上達したんです!」


嬉しそうに差し出されたハンカチには、少し歪な花の刺繍。

お世辞にも上手とは言えない。

糸はあちこちで引き連れ、形も不格好だ。

けれど、一針一針を大事に相手を思って縫ったことが痛いほどに伝わってくる、温かな作品だった。


「……ええ。以前より綺麗ですわ。努力が形になっています」

そう返すとエレノアはぱっと顔を輝かせた。

「本当ですかっ? 嬉しいです! 毎日練習した甲斐がありました!」

その天真爛漫な笑顔に胸の奥が妙にざわつく。

眩しい。

あまりにも真っ直ぐで裏がなくて、人を疑うことさえ忘れてしまったような笑顔。

そして、私は気づいてしまう。


フレデリックが少し離れた場所から、そんな彼女を自然に見つめていることに。


それは、私を縛り付けるような義務感に満ちた熱い視線ではない。

けれど確かにそこには、隠しようのない興味と純粋な好意が滲んでいる。

それは多分人間としてとても健全で、あまりにも正しい感情だった。


エレノアは人を惹きつける。

光が虫を集めるように、彼女の純粋さは周囲を癒やす。

彼が彼女へ目を向けることも、きっとこの春の空気が流れるのと同じくらい自然なことなのだ。




───それなのに。

不意に、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みが走る。

自分でも理由が分からない。

これは嫉妬なのか。

自分の立場が揺らぐことへの焦りなのか。

それとももっと別の、名付けようのないドロドロとした感情なのか。

整理できない感情が、私の胸の奥でみしりと軋んでいた。


「レティシア様? どうかされましたか?」

エレノアが不思議そうに首を傾げる。

いけない。

また“完璧な私”が崩れ、顔に出ていたのだろうか。


「……何でもありませんわ。刺繍の図案を思い出していただけです」

私は瞬時に微笑を貼り付ける。

一点の曇りもない、完璧な公爵令嬢の笑み。

そうしていなければ、今この瞬間に私の輪郭が溶けて崩れ去ってしまいそうだった。




───……


午後の講義を終えた後。

私は誰にも見つからないよう、人気のない北棟の古い回廊へ逃げ込んでいた。

石造りの冷たい壁。

窓から吹き込む少し冷えた風が、火照った頭と胸を少しだけ落ち着かせていく。


「また逃げてきたのですか。相変わらず、居場所を見つけるのが下手ですね」

静かな、抑揚のない声。

振り返らなくてもその声の主は分かっていた。


「……先生」

ルーカス先生は私の隣へ並び、窓枠へ軽く寄りかかった。

夕刻の光が、彼の怜悧な瞳を透過する。


「今日は随分お疲れですね。顔色が最悪ですよ」

「そんな顔をしておりましたか?」

「ええ。今にもこの窓から、幽霊のように透けて消えてしまいそうな顔をしています」

失礼ですわ、といつものように言い返そうとして、私は言葉を飲み込んだ。

否定する気力さえ、今の私には残っていなかった。


しばらく、重苦しい沈黙が二人の間に落ちる。

けれど、ルーカス先生は何も聞かない。

どうしたのかも、誰のせいなのかも、何を思っているのかも。

ただ、冬の夜の底にあるような静けさを纏ってそこにいる。

その一切の期待も慈悲もない静けさに、逆説的に私の呼吸は少しだけ楽になる。


「……私、最近よく分からないのです」

ふと、抑えていた言葉が吐息のように漏れていた。

「殿下は、とてもお優しいですわ。エレノアさんも、本当に良い子で……。私の周りには何一つ、おかしなことなどないのに」


なのに、どうしてこんなに苦しいのか。

そう続けようとして、喉が熱くなり、言葉が詰まった。

ルーカス先生は横目で私を一瞥して鼻で笑った。

「あなたはずっと“正しく苦しもう”としていますからね」

「……意味が分かりませんわ」

「分からなくて結構です。自覚がないのが、あなたという人間ですからね」


彼は小さく笑った。

その笑みは私を突き放すようでいて、どこかこの世界の残酷さを肯定しているようにも聞こえた。

「人間は、正しいものだけで幸福になれるほど単純な生き物ではありませんよ。毒が必要な時もあれば、正しさが牙を剥くことだってある」


強い春風が回廊を吹き抜ける。

遠くの校庭からは部活動に励む生徒たちの喧騒や、エレノアの鈴を転がすような笑い声がまだ聞こえていた。

その中心にはきっとフレデリックもいて、優しい眼差しで世界を祝福しているのだろう。


私はゆっくりと目を閉じた。

どうして、あんなに温かで正解に近い光景を見ているだけで、私の胸は壊れそうなほど軋むのか。


その本当の答えを私はまだ、知る勇気さえ持っていなかった。

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