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悪役の選択

その日の夜、私は自室で一人鏡の前に座っていた。

豪奢な装飾に縁取られた鏡面の中に映し出されているのは、誰の目から見ても完璧な公爵令嬢の姿だ。

一筋の乱れもなく整えられたバターブロンドの髪、陶器のように滑らかな肌、そして冷徹なまでの気品を湛えた瞳。


美しく、気高く、非の打ち所がない。

それは私がこれまでの人生を賭けて、血の滲むような努力で作り上げてきた“レティシア”という仮面だった。

幼い頃からこの仮面こそが私を守り、私を私たらしめる唯一の防壁であったはずなのに。


けれど、その中身はどうだろう。


夫の影をいつまでも振り切れず。

フレデリックの正しすぎる優しさに息を詰め、怯え。

エレノアが放つ無垢な光に己の影を焼かれて傷つき。

ルーカス先生が与えてくれる冷ややかな静けさへと、泥泥とした心を引きずって逃げ込んでいる。


醜い。

あまりにも、無様で、醜悪だ。


「……だったら」

ぽつりと、乾いた声がこぼれた。

鏡の中の自分が、僅かに嘲笑ったように見えた。


中途半端に“自分”を残そうとするから苦しいのだ。

誰かに優しくしたいくせに、その手を振り払って傷つける。

誰かに愛されたいくせに、その愛の重さに耐えきれず逃げ出したくなる。

フレデリックの差し出す幸福を素直に享受することもできず、かといって、エレノアのように天真爛漫に振る舞うこともできない。


ならばいっそ、最初から一筋の迷いもない悪役であればいい。

他人の感情など踏みにじり、自分のエゴだけを貫き通す、凍りついた氷像のような女。

その方が、この中途半端な地獄に留まり続けるよりもずっと簡単で、ずっと楽になれるはずなのに。

私は震える手でドレッサーの上に置かれた重厚な宝石箱に触れた。

この輝きと同じように冷たく、硬く、何も通さない心さえあれば、こんな痛みは感じずに済んだはずだ。




コンコン、と。

静まり返った室内で扉を叩く音が響いた。

「──やはり、まだ起きていらしたのですか」

ルーカス先生の声だった。


私が声を出す前に彼は気配を感じ取ったのか、音もなく室内へと足を踏み入れた。

本来であれば、深夜に未婚の令嬢の部屋へ足を踏み入れるなど言語道断の不祥事だ。

けれど、彼にそんな倫理観を求めるのが無駄であることを私はすでに知っている。


私は鏡越しに彼を見た。

夜の闇を溶かし込んだような瞳が、鏡の中で私を捉える。


「先生」

「顔色が悪いですね。レティシア嬢は鏡の中の自分に呪いでもかけていたのですか?」

「……少し考え事をしていただけですわ。誰にも邪魔されたくないような、ね」


彼はそれ以上、深くは踏み込まなかった。

私の弱さを無理に暴こうとも、不躾な同情を寄せようともしない。

ただいつものように静かに、そこに存在して私を見ている。

その視線の温度に、私はゆっくりと目を閉じた。

彼になら、この醜い心の断片を見せても何かが壊れることはないと思えたから。




「……先生」

「はい」

「もし私が、誰の目から見ても救いようのない、最低な女になったとしたら」

声が、自分でも情けないほどに微かに震える。

「あなたは……私を軽蔑しますか」


ルーカス先生は、瞳を少しだけ細めた。

それは嘲笑でも失望でもなく、どこか幼い子供の問いかけを聞くような不可解な色を帯びていた。

「あなたは、自分を極端に分類したがりますね」


「……え?」

「善人か悪人か。愛される側か、捨てられる側か。白か黒か。けれど、人間という生き物はそんなに綺麗に割り切れるものではありませんよ」

彼は静かな、けれど有無を言わせぬ響きを込めて言葉を続ける。


「たとえあなたが誰かを深く傷つけたとしても、内に醜い感情を抱き、それを形にしたとしても……それで突然、あなたが“別人”になるわけではないでしょう。聖女が悪に染まるのも、悪女が慈悲を見せるのも、それは連続した一人の人間が行うことに過ぎない」


私は言葉を失い、閉じていた目を見開いた。

鏡の中の自分と、その傍らに立つ男。

ルーカス先生は机へ軽く凭れながら、唇の端を僅かに釣り上げて小さく笑った。

その笑みには、私を正しい道へ導こうとする意図など微塵も含まれていなかった。


「少なくとも私は、今さらあなたにに対して高潔で美しいお人形だなどという幻想は抱いていませんよ。あなたは元から、私に中身を覗かせたでしょう?」

「……それ、全く慰めになっておりませんわ。むしろ私の失態をなじっているように聞こえます」

「ええ。あなたを慰めるつもりもありませんので」


そのあまりにも素っ気なく期待の欠片もない言葉に、私は思わず小さく吹き出してしまった。

胸を覆っていた重苦しい霧が、彼の冷たい言葉によって一瞬だけ霧散していくような気がした。

フレデリックの前では息が詰まり、アリシアの前では身が焼ける。

けれどこのルーカス先生との距離感が、今の私には、どんな甘い愛の言葉よりも心地良かった。


「私は私でしかない、ということですか」

「そうです。あなたがどれほど泥にまみれようとも、あるいは奇跡的に光を掴もうとも」


救わない。

肯定もしない。

けれど否定もせず、ただ隣にいる。


私は再び、鏡の中に映る自分を見つめる。

そこに映る女はまだ、覚悟の決まりきった完全な悪役にはなれていない。

優しさを捨てきれず、かといって愛を受け入れることもできない、中途半端な自分。


けれど。

扉を閉めるように、少しずつもう戻れなくなっている気がした。

鏡の中の私の輪郭が、ゆっくりと部屋の影に溶け込んでいく。

私は静かに立ち上がり、夜の冷たい空気を感じながら窓の外を見つめた。

どこかで、何かが決定的に壊れる音がした。

それが私の心なのかあるいは運命という名の枷なのかは、まだわからなかったけれど。

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