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決定的なズレ

その違和感はまるで薄氷を一枚ずつ重ねていくように、静かに、けれど確実に私の足元を冷やし続けていた。


「今日は風が冷える。外の実習へ出るのはやめよう。代わりのレポート課題については私から教師に確認しておく」

「顔色が優れないようだ。疲れているんだろう? 無理をしなくていい」


フレデリックはどこまでも優しかった。

その優しさは一点の曇りもない正義に基づいたものであり、王太子として、そして婚約者として、あまりに完璧だった。

だから誰も疑問を抱かない。

周囲の人間は「愛されているのだ」と羨み、彼自身もまた、自分が最善を尽くしていることに一片の疑いも持っていない。


けれど私は、その正しさに窒息しかけていた。




───……


その日も、放課後の予定は私の知らないところでいつの間にか決定事項として差し出された。

「今日は王宮お抱えの仕立て屋がアカデミーまで来る。次回の夜会に向けたドレスの採寸が必要だから、放課後は予定を空けておいてくれ。サロンで待っている」

「……殿下、申し訳ありません。今日は図書室の当番があるのです。新刊の目録整理を済ませなければならなくて」

「そんなことは、誰か他の者へ任せればいい。レティがわざわざそこに長居する必要はないだろう?」


フレデリックの口調には悪意など微塵もなかった。

本当に、欠片ほども。

彼は当然のように、私の事情や責任よりも“彼が守るべき私”としての都合を優先順位の最上位に組み込む。

私の意志は、彼が用意した豪華な揺り籠の中ではあってもなくても変わらない装飾品のようなものだった。


「……そうですわね。おっしゃる通りですわ」

「レティ?」

ふっと黙り込んでしまった私を見て、フレデリックが心配そうに眉を寄せる。

「また無理をしているのか? レティは昔から、自分の限界を過小評価する癖がある」


その瞬間。

心臓の奥を冷たい指先で撫でられたような、奇妙な感覚が背筋を駆け抜けた。

私は気づいてしまったのだ。




───彼は目の前にいる私を見ているようで、その実、自分が定義した“守るべきか弱き婚約者”という偶像を見ているのだ、と。


私が何を考え、何を成したいのか。

それを知る必要はない。

彼にとっての正解は、彼が提供する安息の中に私が収まっていること、ただそれだけなのだ。


「……いいえ、大丈夫ですわ。少し考え事をしていただけです」

私は微笑む。

長年の修練で身につけた、一点の隙もない完璧な公爵令嬢の笑顔。

するとフレデリックは満足げに、そして安心したように息を吐いた。

「よかった。あまり心配させないでくれ」


その安堵した姿を見て、私の胸の奥は急速に熱を失い、凍りついていった。

彼が安心すればするほど、私の本当の言葉は深い海の底へと沈んでいく。




───……


その日の放課後に回廊からふと視線を落とすと、春の陽だまりが広がる中庭でエレノアがまた周囲の笑いを誘っていた。

どうやら、用意されていた紅茶を自分の服へ盛大に零してしまったらしい。


「も、申し訳ありません……! 私ったら、なんてドジを……!」

顔を真っ赤にして、濡れた袖をバタバタと振って慌てる彼女。

周囲の令嬢や騎士たちはそんな彼女の様子に「またですか」と呆れながらも、どこか楽しそうに笑っている。

その場には、張り詰めた緊張感など欠片もなかった。


そこへ、学生会の公務を終えたフレデリックが自然な足取りで歩み寄った。

「火傷はしていないか?」

「だ、大丈夫です! ちょっと濡れただけですから!」

「なら良かった。服は乾かした方がいい。予備の布を貸そう」


それだけ。

言葉にすれば、ただそれだけのやり取りだった。

けれどそこにある空気は、私とフレデリックの間に流れる停滞したそれとは決定的に違っていた。


───何一つ、噛み合わないものがない。


エレノアは、彼が差し向ける善意を自分を縛る窮屈な鎖だとは露ほども思わない。

むしろそれを素直に受け取り、明るい笑顔で返している。

そしてフレデリックもまた、彼女に対しては“守るべき役割”を無理に押し付けたりはしない。

彼女の失敗を笑い彼女の不器用さをそのまま受け入れている。


自然なのだ。

パズルの最後の一片が、あつらえたようにそこに収まったかのように。

それは、私がどれほど努力してもどれほど心を砕いても作り出すことのできない、魂の呼吸が合う光景だった。


「……本当にお似合いですわね」


気づけば、自嘲的な響きを孕んだ言葉が唇から零れていた。

道すがら隣に立っていたルーカス先生が、僅かに視線をこちらに向けた。

「おや。嫉妬ですか? 」

「……違います」


私は即答した。

声に棘が混じったのを自覚したが、訂正する気にはなれなかった。

けれど心の奥底で、その否定を完全に確信しきることはできなかった。

嫉妬。

そんな醜くも鮮烈な感情であれば、まだ救いがあったかもしれない。




───ああ、私だけが、この世界の異物なんだ。




そう、残酷な真実を理解してしまっただけだ。

正しすぎるフレデリックと、明るすぎるエレノア。

その二人が織りなす眩いタペストリーの中で、私という存在だけが、色の合わない解けた糸のように浮き上がっている。

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