呼吸できる場所
最近の私は、無意識のうちに図書室の最奥へと足を向けるようになっていた。
学園の喧騒から切り離された、石造りの静謐な空間。
豪華な装飾に囲まれた公爵家のサロンでもなく、色とりどりの花が咲き乱れ、誰かと誰かの密やかな語らいが漏れ聞こえる中庭でもない。
古書の背表紙が放つ独特の沈んだ匂いと、高い天窓から差し込む陽光の中で微かな埃が踊る、この薄暗い静寂の中へ。
ここが、何よりも静かだから。
ここなら、私の心の深くに無遠慮に踏み込んでくる者もいないから。
───そして。
「また来たんですか、お嬢様」
書架の陰、いつもの指定席にルーカス先生がいるから。
「来たら悪いんですの?」
「いえ。すっかりここの常連になりましたね」
窓際の席。
私は物語をなぞるように本を開き、ルーカス先生はその向かいで淡々と学園の事務書類や魔導書の写しに目を通している。
交わされる会話は、極めて少ない。
本来公爵令嬢である私と一介の教師である彼が、こうして長い時間差し向かいで座っていること自体、周囲から見れば奇妙な光景かもしれない。
けれど、この図書室の死角になった一角だけは。
身分もシナリオ上の役割も、外の世界の煩わしいルールも適用されない治外法権のように感じられた。
フレデリックの隣にいる時よりも、エレノアの真っ直ぐすぎる光に晒されている時よりも。
不思議なほど肺の奥まで空気が届き、息をするのが楽だった。
私は開いた本のページをめくる手を止めた。
指先が古い紙の質感に触れている。
その感触だけが、今の私を現実に繋ぎ止めていた。
窓の外では、春の柔らかな光が中庭を照らしているはずだ。
そこにはきっと完璧な王子であるフレデリックと、太陽のように笑うエレノアがいる。
二人の周りには自然と人が集まり、眩しいほどの正しさが満ち溢れていることだろう。
一方で私は。
私は、その光の中にいるべき“悪役”としてあるいは“婚約者”として、常に背筋を伸ばし完璧な仮面を貼り付けていなければならない。
「……先生」
「はい」
「どうしてここは、こんなに静かなのかしら」
思わず零れ落ちた言葉は、自分でも驚くほど頼りなく響いた。
ルーカス先生は書類をめくる手を止め、少しだけ考えるように伏せられた睫毛を揺らした。
彼は窓の外から差し込む斜光を遮るように、わずかに首を傾ける。
「図書室ですから」
「そういう意味ではありません」
私の少し尖った物言いに、彼は「やれやれ」といった風に小さく肩をすくめた。
その仕草には、フレデリックが向けてくるような過保護な心配も、エレノアが向けてくるような無垢な信頼もない。
ただ目の前の事象をありのままに受け入れる、乾いた軽やかさがあった。
「誰も、あなたへ何かを求めないからでは?」
その言葉に、私は僅かに目を見開いた。
図書室を漂う冷えた空気が、一瞬にして肺の奥を貫いたような感覚。
「外では、あなたは公爵令嬢であり、王太子の婚約者だ。あるいは誰かにとっての壁であり、誰かにとっての目標でもある。けれどここには本と、仕事に追われる教師が一人いるだけです」
ルーカス先生の声はどこまでも平坦で、だからこそ真実味を持って私に届いた。
「本はお嬢様に完璧であることを望みませんし、私もあなたの行儀作法を採点するつもりはありません。……ここでは、何者である必要もない。ただ、座っているだけの生徒であればいい」
───その言葉が、どれほど今の私を救っただろうか。
フレデリックの隣では、彼の隣に並ぶに相応しい非の打ち所がないレティシア・トムソン・イーデンでいなければならないと思う。
エレノアの前では彼女の純粋さに当てられて、自身の内に渦巻く黒い感情を悟られまいと、必死に醜さを隠そうとする。
夫を思えば自分の歩む道の定まらなさに自ら追い詰められて苦しくなる。
けれどここでは私は公爵令嬢である必要も、断罪を待つ悪役である必要も、無理に作り笑いをする善人である必要すらない。
ただ、一人の人間としてそこに存在しているだけでいい。
「……変ですわね」
「何がです?」
「先生といると、安心するなんて。自分でもどうかしていると思いますわ」
ルーカス先生は、こらえきれないといった風に低く喉を鳴らして吹き出した。
彼がこんな風に笑うのを、私は他の場所では見たことがない。
「それは光栄です」
「褒めておりません」
「ですが、あなたは最近誰に強制されるでもなく、自分からここへ来るでしょう?」
言われて、私は反論できずに口を閉ざした。
否定したかった。
けれど、自分の心が求めている静寂を一番理解しているのは自分自身だった。
気づけば、足がここへ向いてしまう。
光の当たる大通りではなく、冷ややかな影の落ちるこの場所へ。
「依存はおすすめしませんよ」
「していませんわ」
即答するとルーカス先生は少し笑った。
「なら良かった」
彼は再び羽ペンを手に取り、手元の書類に視線を戻した。
私を追いかけもしないし、縛りもしない態度。
「あなたは自由だ」と言われているような突き放されているようでいて、その実、最も尊重されているような不思議な感覚。
だからこそ、私を“婚約者”という重い鎖で繋ぎ止めようとする殿下の愛よりも余計に居心地が悪く、そして抗いがたいほどに安らかだった。
窓の外では、春の夕陽が静かに落ちていく。
赤い光が書架の間をすり抜け、古い絨毯の上に複雑な模様を描き出していた。
私は本へ視線を戻した。
先ほどまで滑っていた活字が、今は少しだけ意味を持って頭の中に流れ込んでくる。
───ここなら。
誰にも理想を押し付けられず、誰の光にも焼かれないこの場所なら。
少しくらい、深く呼吸をしても許されるのかもしれない。
“レティシア”という名前の重さを脱ぎ捨てて、ただの空っぽな人間として、この静寂の中に溶けてしまってもいいのかもしれない。
微かな紙のめくれる音と、彼がページを繰る音。
その規則正しいリズムだけが、今の私を世界の果てへと連れ出してくれる気がした。
夕闇が忍び寄り、図書室の輪郭が曖昧になっていく。
その境界の不確かさが、今の私には酷く愛おしく思えた。
私はゆっくりと目を閉じ、肺の奥までこの冷たくて清潔な空気を溜め込んだ。
そして小さく、誰にも聞こえないような音で息を吐く。
それだけで明日もまた“レティシア”を演じられるような、そんな錯覚を抱きながら。




