悪役失格
数日後の魔法基礎実習の最中に、その小さな騒ぎは起きた。
講義室に充満する微かな硫黄の匂いと、張り詰めた魔力の気配。
「きゃっ!」
乾いた破裂音と共に、エレノアの魔法陣が青白い火花を散らして制御を失った。
衝撃で机の上の薬瓶が数本吹き飛び、中に入っていた色付きの液体が容赦なく石床へと飛び散る。
「またエレノアさん?」
「平民だから基礎の魔力制御がなっていないのよ。迷惑だわ」
周囲の令嬢たちから漏れる、冷ややかな嘲笑と小さな失笑。
エレノアは顔を真っ青に染めて、震える手でこぼれた液体の海を拭おうとしていた。
「ご、ごめんなさい……! すぐに、すぐに片付けますから……!」
必死に頭を下げる彼女へ、担当の教師が重苦しい溜息を吐き捨てる。
「片付けなさい、エレノア嬢。実習は中断だ。周囲への安全配慮が欠けている」
しゃがみ込んだエレノアの、泥に汚れたような指先が小さく震えている。
私はそれを見て、思考が追いつくよりも先に無意識のうちに椅子から立ち上がっていた。
「先生」
私の声が響いた瞬間、教室の空気が凍りついたように止まった。
「今の反応、薬液の配合比率に不備があったのではありませんか? 初級用の魔法陣にしては、魔力反発の波形が強すぎますわ。準備された素材自体の純度を疑うべきです」
教師が不愉快そうに眉をひそめ、眼鏡の奥の目を光らせた。
「……何が言いたいのです、レティシア嬢。これは彼女の技量不足による事故ですが」
「彼女だけの責任ではない、と申し上げているのですわ。管理側の調整ミスを生徒の未熟さにすり替えるのは、教育者としていかがなものかしら?」
静まり返る教室。
私の放った傲慢な正論に、誰もが息を呑んだ。
床に膝をついたままのエレノアが、信じられないものを見るような瞳でこちらを見上げる。
教師は僅かに沈黙し、私の家名の重みと、指摘の正当性を天秤にかけた。
やがて、苦々しげに咳払いをする。
「……なるほど。確かに再調整不足の可能性も否定できません。認めましょう。エレノア嬢、もういい。席へ戻りなさい」
張り詰めていた空気が、一気に緩む。
エレノアはその大きな瞳に涙を湛えながら、真っ直ぐに私を見た。
「レティシア様、ありがとうございます……! 私、本当に……!」
その一点の曇りもない感謝に満ちた顔を見た瞬間。
胸の奥が、焼け付くような不快なざわつきに襲われた。
私は思わず彼女から視線を逸らし、扇を広げて口元を隠す。
「勘違いしないでくださる?」
自分でも驚くほど、鋭く、そして冷たい声が出た。
「実習がこれ以上滞るのが、私にとっては迷惑だっただけですわ」
エレノアが、弾かれたように目を瞬かせる。
「……え?」
「二度と私の足を引っ張らないでちょうだい。無能な人間と同じ空間にいるのは、反吐が出るわ」
教室の空気が再び凍りつく。
言い過ぎた。
そんなことは、百も承知だ。
けれど、こうして毒を吐き散らさなければ彼女の善意に飲み込まれて、私が私でなくなってしまう気がした。
エレノアは傷ついた顔をするかと思いきや、少しだけ悲しそうに、けれどどこか温かな笑みを浮かべた。
「……はい。次は、頑張ります」
その笑顔が、今の私にはどんな罵倒よりも苦しかった。
───……
放課後になり、私は誰にも見つからないよう人気のない北棟の回廊を独りで歩いていた。
胸の奥に、ずっしりと重い鉛を詰め込まれたような感覚が消えない。
───最低だ、私。
心の底では助けたいと思っていたくせに。
彼女の窮地を放っておけなかったくせに。
結局は最後にあんな風に突き放して、自分だけを守るために彼女を傷つけた。
優しくしたい。
けれど優しくした瞬間に、私がこれまで必死に積み上げてきた“悪役”という名の防壁が音を立てて崩れ去ってしまう。
それが何よりも怖かった。
「分かりやすく落ち込んでいますね」
不意に頭上から降ってきた静かな声。
振り返ると、回廊の影になった壁にルーカス先生が気怠げにもたれかかっていた。
「……見世物ですの? 人の感傷を覗き見るなんて、悪趣味ですわ」
「ええ。今日のレティシア嬢は、隠しきれないほどに表情が雄弁でしたから。かなり興味深い見世物でしたよ」
腹立たしいほどに冷静な言葉。
けれどその遠慮のない物言いに、不思議と肩の力が抜けていく。
「あなたは本当に……救いようがないほど不器用ですね」
「先生にだけは言われたくありませんわ。あなたも人の心というものを理解する気が微塵もないでしょう」
「否定はしません。ですが、理解できないからこそ観察は捗ります」
さらりと返され、私は毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
そして夕闇に溶けてしまいそうなほど、ぽつりと本音を零す。
「……私は、悪役にもなりきれませんわ。本当は、何者にもなれていないのかもしれない」
ルーカス先生はそれに対して何も言わなかった。
慰めることも、励ますことも。
ただ、その沈黙を私の否定に使うこともしなかった。
その、ただそこに在るだけの冷ややかな沈黙が。
今は少しだけ、傷ついた私の自尊心にはありがたかった。




