自覚
アカデミー生活という舞台にも、少しずつ形ができ始めていた。
それは決められた役を演じる役者のように淀みのない、けれど自由のないルーティンだった。
「午後の実習は移動が多い。レティは今日は私の馬車を使うといい。手配は済ませてある」
「レティ、放課後は学生会へ顔を出してくれ。新入生の名簿確認を僕の隣で一緒に済ませたい」
フレデリックの言葉によって、私の時間はすべて塗り潰されていく。
彼はいつだって正しい。
婚約者として、次期国王として、そして一人の男として、非の打ち所がない程に。
周囲の令嬢たちは、そんな私たちをうっとりとした羨望の眼差しで見守っていた。
「本当に仲睦まじいですわね、あのお二人は」
「殿下はレティシア様を、まるで壊れ物を扱うように大切になさっているもの」
そう囁かれる度、私は曖昧な微笑を貼り付けることしかできなかった。
胸の奥で疼く違和感の正体が、自分でも分からない。
フレデリックは優しい。
ちゃんと私を見ている。
私のことを誰よりも理解しているという自負が、その瞳には宿っている。
なのに時々、底なしの沼に沈んでいくような、逃げ場のない息苦しさに襲われるのだ。
「レティ?」
不意に名前を呼ばれ、私は意識を現実に引き戻した。
中庭へと続く回廊。
フレデリック殿下は少し眉を寄せて、私の顔を覗き込んでいる。
「また考え事か。顔色が優れないようだが」
「……少し、午前の講義内容を整理していただけですわ。お気になさらず」
「嘘だな」
即答だった。
「君は悩み事がある時、無意識に呼吸が浅くなる。今の君はまともに空気を吸えていない」
さらりと言われ、私は思わず目を瞬かせた。
そんな自分でも気づかないような微かな変化まで、彼は克明に観察しているのか。
「昼食後の予定を減らそう。今日は学生会も無しだ。私が許可する」
「え……? ですが、名簿の確認が」
「疲れているだろう。無理をする必要はない。君の健康以上に優先すべき公務など、今の私にはないよ」
自然な口調。
慈愛に満ちた決定。
けれど私は、咄嗟に感謝の言葉が出なかった。
──また、決まった。
私の都合も抱えている責任も。
何より私自身の意志も。
確認されないまま、彼の正しさによってすべてが上書きされていく。
「……殿下。私はそこまで虚弱ではありませんわ」
「分かっているよ。だが心配なんだ。レティを健やかに保つのは私の役目だからね」
その声音には一片の疑いもない本物の情愛がこもっていた。
だからこそ、責めることができない。
善意という名の純白の糸で縛り上げられているからこそ、余計に苦しいのだ。
「レティシア様ー!」
そこへ、廊下の向こうから明るい声が響いた。
振り返ると、エレノアがこちらへ駆けてくるのが見えた。
今日も彼女は慌ただしい。
腕いっぱいに教材を抱え、足をもつれさせながら、危うくそれを落としそうになっては慌てて抱え直している。
「こんにちは、殿下!」
「こんにちは、エレノア嬢。相変わらず元気だね」
フレデリックは穏やかに応じた。
その態度は以前と何ら変わらない。
特別甘く接するわけでも露骨に気に掛けている風でもない。
完璧な王太子のマナーだ。
けれど、エレノアの方はそんな距離感などまるで気にしていなかった。
「レティシア様! この前お勧めしてくださった本、読みました!」
「……もう? まだ数日しか経っておりませんわよ」
「はい! すごく面白くて、止まらなくなっちゃって! あの結末、あんな風になるなんてびっくりしました!」
目を輝かせ興奮気味に話す彼女に、私は少しだけ言葉を失う。
こんな風に、計算も裏もなしに真っ直ぐな好意をぶつけられることに、私はどうしても慣れることができない。
「そう。……なら、良かったですわ。あなたの読解力に合っていたのなら」
「はいっ! またお勧めがあったら、ぜひ教えてください!」
屈託なく笑う、初夏の陽光のような少女。
その横でフレデリックが静かに、そして深くこちらを見ていた。
「君たちは、随分と仲良くなったんだな」
何気ない一言だった。
けれど私はなぜか冷たい水を背中に垂らされたような、妙なざわつきを覚えた。
「そ、そんな! 私が勝手に懐いてるだけです! レティシア様はご迷惑かもしれませんが……」
慌てて手を振るエレノアを見て、彼は小さく笑った。
「それでも、レティが他人に本を薦めるのは珍しいことだよ」
「……殿下、それは語弊がありますわ」
「昔のレティなら、必要以上に他人へ関わろうとはしなかった。君の知の世界は、君一人で完結していたからね」
───まるで、今の私よりも過去の私の方が“私らしい”とでも言うような口調。
実際、彼は理解しているのだろう。
長い付き合いだ。
きっと誰よりも私の変化を、私の本質を見てきた。
なのに。
どうして私は、彼に見つめられる程こんなに苦しいのだろう。
その時だった。
「あっ」
弾んだ声を上げたエレノアが、廊下のわずかな段差に足を滑らせた。
抱えていた教材が盛大に床へ散らばり、重い音を立てる。
「あ、ご、ごめんなさい! すぐ片付けます!」
慌ててしゃがみ込む彼女へ、私は反射的に手を伸ばしていた。
床へ滑った一冊のノートを拾い上げる。
すると、隣にいたフレデリックも流れるような自然な動作で彼女の傍らへしゃがみ込んだ。
「怪我はないかな?」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます!」
「ならよかった。教材は大切にしないといけないよ」
穏やかな、包み込むような声。
至近距離で殿下に見つめられ、エレノアは少し照れたように、けれど嬉しそうに笑う。
その、光の中に収まった二人の光景が妙に自然で。
胸の奥が、ひどく、ひどくざわついた。
まるで、最初からパズルのピースがそこに収まるべき形だったみたいに。
私は拾い上げたノートを自分でも驚くほど冷たく、少し強めにエレノアへ押し付けた。
「……次からは、足元に気をつけなさい。見苦しいですわよ」
「あ……はいっ。すみません」
エレノアはきょとんとしていた。
自分でも分かっている。
今の言い方は必要以上に冷酷で、棘があった。
けれどこうして棘を逆立てていなければ、自分の中の何かが一気に崩れ去ってしまいそうだったのだ。
「レティ?」
フレデリックが不思議そうに、訝しげにこちらを見上げる。
私はその、すべてを暴こうとする瞳から逃れるように視線を逸らした。
「……私は、先に図書室へ向かいますわ」
「待て。僕が送るよ」
「結構です!」
少し鋭い拒絶の声になった。
彼が僅かに目を見開く。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
一瞬、廊下の空気がぴたりと止まる。
エレノアが気まずそうに、不安げな視線を彷徨わせた。
「……失礼いたします」
私は逃げるように、その場を後にした。
背中に刺さるフレデリックの無言の視線が、熱を帯びて痛かった。
───……
図書室の最奥は、いつだって静かだった。
人の気配も少なく、遠くで誰かが古いページをめくる乾いた音だけが響いている。
ようやく、まともに空気が吸える。
私は窓際のいつもの席へ腰を下ろし、深く、長く、肺の中の毒を吐き出すように息を吐いた。
「逃げてきましたね」
不意に降ってきた静かな声に、心臓が跳ねる。
顔を上げるとそこにはいつの間にかルーカス先生が立っていた。
「……盗み聞きは趣味が悪いですわ。教師としていかがなものかと」
「耳が良いのも困りものです。不本意ながら聞こえてしまっただけですよ」
そう言いながら、彼は許しを請うこともなく当然のように向かいの席へ腰を下ろした。
私は慌てて本を開くふりをした。
けれど、案の定文字は全く頭へ入ってこない。
「殿下と喧嘩でもされたのですか?」
「しておりませんわ。そんな、子供じみたこと」
即答すると、ルーカス先生は瞳を僅かに細めて笑った。
「では、あなたが一方的に何かに疲れているだけですか」
「……否定できないのが腹立たしいですわね」
ぽつりと零すと、彼は肘をつき指を組んで静かにこちらを見つめた。
「殿下はあなたを大切にしている。それは誰の目にも明らかだ」
「ええ。重すぎるほどに」
「だからこそ、あなたは苦しい。……違いますか?」
私は思わず顔を上げた。
ルーカス先生は、まるで窓の外の天気を語るような淡々とした口調で続ける。
「大切にされることと、あなたが楽でいられることは、全く別の問題ですから」
その言葉に胸の奥が小さく、けれど激しく揺れた。
───理解された。
そう思ってしまったことが、何よりも怖かった。
フレデリックの前ではあんなに強張っていた心が、彼のたった一言で脆く解けていく。
「……先生は、何でも簡単そうに仰いますのね」
「物事を難しく、そして悲劇的にしているのは、あなたの方でしょう?」
「またそうやって、人を揶揄って」
「揶揄ってなどいませんよ。真実を口にするのはいつだって残酷なものです」
返す言葉が見つからない。
私は黙って、本から視線を逸らして窓の外を見た。
夕陽がゆっくりと傾き始め、学園の白い校舎を長く、赤い影が侵食していく。
燃えるような空を見つめながら、私はぼんやりと思った。
フレデリックは、きっと何も間違っていない。
エレノアも、何も悪くない。
悪いのは、そのどちらの善意にも上手く息を合わせられず一人で溺れかけている、自分という出来損ないなのだと。
その事実だけが、冷たい石のように胸の奥で鈍く沈んでいた。




