悪役の矜恃
それから、数日。
フレデリックは恐ろしい程に変わらず優しく、そして完璧だった。
階段を降りる際には淀みのない所作で手を差し出し、騒がしい人混みではさりげなく、けれど確実に私の肩を庇うようにして歩く。
全てが、高潔な王子の振る舞いとして正しかった。
正しすぎるほどに完成されていた。
だからこそ、私はその正解で塗り固められた空間にいると時折ひどく息苦しくなる。
彼の優しさは私を慈しむためのものなのか、それとも私を逃がさないための檻なのか、その境界がどんどん曖昧になっていく。
そしてエレノアは少しずつ、確実にアカデミーという特殊な社交場へ馴染み始めていた。
彼女は不器用だ。
平民出身ということもあり貴族特有の複雑な礼儀も完璧ではないし、日常の些細な失敗も多い。
けれど、誰かが困っていれば彼女は損得勘定なしに真っ先に駆け寄るし、楽しい時は子供のように全力で笑う。
そんな彼女の周囲には、蔑みや冷笑を跳ね返す程の温かな人の輪がいつの間にか形成されていた。
──まるで、春の陽だまりみたいな子。
ふとそんなことを思った瞬間に、激しい自己嫌悪と苛立ちが込み上げる。
私は一体何を見ているのだろう。
あれは、この世界のヒロインだ。
私がいつか舞台から降りるために用意された至高の光。
そんな光を羨む資格など、悪役を演じる私には欠片も残されていないというのに。
───……
その日の昼休み。
私は珍しく一人で中庭近くの回廊を歩いていた。
フレデリックが急な公務の報告で席を外した、束の間の休息。
少しだけ一人になって冷たい風に当たり、過熱した思考を冷やしたかった。
すると、不意に回廊の角から耳障りな騒ぎ声が聞こえてきた。
「だから、平民が勝手に触るなと言っただろう! 弁えろ!」
突き刺すような鋭い怒声。
反射的に視線を向けると、数人の高慢そうな男子生徒たちが困惑するエレノアを取り囲んでいた。
彼女の足元には、無残に砕けたテラコッタの鉢植えと飛び散った湿った土。
どうやら薬草学の実習中に、何らかの不手際で失敗してしまったらしい。
「も、申し訳ありません……すぐに片付けますから!」
エレノアが何度も頭を下げ、泥に汚れながら破片を拾おうとする。
けれど、相手の苛立ちは収まらない。
「謝れば済む問題か? それは北の聖域から運ばれた極めて高価な──」
私は、小さく溜息を吐いた。
記憶の中にあるシナリオが正しければ、ここでフレデリックが颯爽と現れ、彼女を救う場面だ。
そういう、完璧でドラマチックな“流れ”だったはずだ。
けれど。
───うるさい、耳障りだ。
気づけば私は思考よりも先に身体を動かし、彼らへと歩み寄っていた。
「……みっともないですわね」
低く、けれど通る声を出した瞬間、回廊の空気が凍りついたように静まり返る。
男子生徒たちが一斉に振り返り、私の顔を認めるなり、みるみるうちに血の気が引いていくのがわかった。
「レ、レティシア様……!」
「寄ってたかって年下の少女を責め立てるなど、アカデミーの貴族としての品位を疑いますわ。随分と、お暇なようですこと」
私は冷ややかに、氷のような視線で彼らを一人ずつ見渡した。
「鉢植え一つの失敗で、そこまで品性を欠いた声を荒げる必要があるのかと聞いているのです。私の耳にまで届くその怒声、あまりに不快ですわ」
「ですが、レティシア様。この女が、我々の実習用の上位種を──」
「聞こえませんでしたの?」
ただ、一段だけ声を落とした。
それだけで、回廊の気温が数度下がったかのような圧が空間を支配する。
私は昔から知っている。
本当の“権威”というものは、怒鳴り散らすよりも静かに、温度を消した方が遥かに恐ろしいということを。
「……っ。し、失礼いたしました!」
彼らは深々と頭を下げ、蜘蛛の子を散らすようにその場から去っていった。
静寂が戻った回廊で、残されたエレノアが信じられないものを見るような瞳で私を見上げた。
「レティシア様……ありがとうございます。助かりました」
その、どこまでも無防備な笑顔。
助けられたことを一点の疑いもなく喜ぶその姿に、胸の奥が不快なほどにざわつく。
私は咄嗟に視線を逸らした。
「勘違いしないでください。エレノアさん」
「え?」
「私は別に、あなたを庇ったわけではありませんわ。あんな騒ぎ、私の平穏を乱す目障りな雑音でしかなかった……ただ、それだけのことです」
わざと冷酷に突き放すように言う。
なのにエレノアは怯えるどころか、困ったように、けれど幸せそうに笑った。
「それでも、私は嬉しかったです。……レティシア様はやっぱりお優しい」
───本当に、この子には調子が狂わされる。
どうしてこの子は、こうなのだろう。
私がどれほど棘を向けても、剥き出しの悪意をぶつけても。
まるでそれを拒絶の印だとは思っていないみたいだ。
「……あなたは、もう少し周囲に対する警戒心を持った方がよろしいのでは?」
「え?」
「世の中、善人ばかりではありません。……私のような人間も含めて、ね」
自嘲気味にそう告げた、その時だった。
「レティ」
背後から、柔らかく穏やかな声が落ちてきた。
そこにはいつの間にか戻っていたフレデリックがそこに立っていた。
彼が私とエレノアを順に、ゆっくりと観察するように見つめる。
「何か、あったのかい?」
「大したことではありませんわ。ただの、些細な不手際です」
私は彼よりも先に、感情を殺して答えた。
フレデリックは少しだけ、不自然な間を置くように眉を寄せる。
彼はそれ以上の追及はしなかった。
代わりに、エレノアへと視線を向けた。
「怪我はなかったかな、エレノア嬢」
「あ、はい! 殿下! 大丈夫です、何ともありません!」
「そうか。それは良かった」
慈愛に満ちた、柔らかな声。
その声音にエレノアが心底安心したように顔を綻ばせる。
その光景を見た瞬間、私の胸がちくりと針で刺されたように痛んだ。
───嫌になる。
私は別に、殿下を心の底から愛しているわけではない。
この婚約は契約であり、私は私の役割を果たしているだけ。
そう何度も自分に言い聞かせてきた筈なのに。
「レティ?」
気づけば、殿下の真っ直ぐな視線が私を捉えていた。
「顔色が悪い。少し休んだ方がいい」
「……何ら問題ありませんわ。私は丈夫ですから」
「無理をしている顔だ。私にはわかるよ」
即答だった。
一切の疑念を持たないその断定に、私は妙な苛立ちを覚える。
どうしてこの人は、こうも簡単に土足で私の内側に踏み込んでくるのだろう。
「殿下」
私は、淑女としての完璧な微笑を貼り付けた。
「私は、殿下が案じてくださるほど脆い人間ではありませんわ。ご心配には及びません」
殿下の瞳が、わずかに細められる。
それは探るような、あるいは見定めているような、静かな視線。
私はそれ以上何も語らなかった。
エレノアの隣に立ち、光を背負う殿下の姿を静かに見つめる。
やはり、その光景は不自然なほどに正しいと感じた。
きっとこの世界は、私が何をしようとも正しく進んでいく。
正しい光が、正しい場所へと収束していく。
ならば、私は。
私はその眩い光の外側で、独り静かに立ち尽くしていればいい。
不意に吹き抜けた風が、春の土の匂いを運んできた。
けれど今の私には、その風さえも、少しだけ冷たく肌を刺すように感じられた。




