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均衡

それから数日の間、私は薄氷の上を歩くような奇妙な均衡の中でどうにかアカデミーでの生活をやり過ごしていた。


フレデリックはあの日以来も変わらず優しく、そして完璧だった。

朝になれば当然の権利のように私を迎えに来て、講義の合間には私の顔色を見て体調を気遣い、昼食の席では必ず私の隣を独占する。

その一挙手一投足は婚約者として、あるいは一人の恋慕する男として、何一つ間違っていない。

むしろ、物語の絵に描いたような理想の光景だ。

だからこそ私にとっては、逃げ場のない真綿で首を絞められるような苦しさがあった。

一方のエレノアはといえば、相変わらず頻繁に私へ声をかけてきていた。


「レティシア様、この前教えていただいた本とても面白かったです! 知らない世界のことばかりで、ずっとワクワクしてしまいました」

「その髪飾り、今日のお召し物にぴったりですね! 本当にレティシア様は何を身につけても気品があって憧れます」

投げかけられるのは他愛のない、純粋な感嘆の言葉ばかり。

けれどその無邪気な熱に触れる度、私の胸の奥には泥のような澱みが溜まっていく。


彼女は何も知らない。

私が自分を照らす彼女の存在をどれほど疎ましく思っているかも。

その癖に、冷え切った自意識のどこかで彼女の放つ真っ直ぐな眩しさに救われかけている自分に絶望していることも。




そしてルーカス先生は、いつも何も聞かなかった。

彼は私が正しさと優しさに押し潰され、息苦しさを隠しきれなくなる頃合いを正確に見計らったように現れる。

そして何でもない顔をして、全く別の世間話を口にするのだ。

踏み込まない。

けれど、見捨てない。

その距離感が今の私には酷く心地よく、同時に恐ろしかった。


その日も、そうだった。


昼休みに人の熱気と喧騒に満ちた食堂を避け、私は避難するように北棟の回廊へ逃げ込んでいた。

開け放たれた窓の外では、春の柔らかな陽射しを浴びた中庭を囲むように生徒たちが談笑に興じている。


その中心にいたのは、やはりエレノアだった。

彼女のストロベリーブロンドが、光の粒子を溶かしたように輝いている。

彼女は何か小さな失敗でもしたのか、周囲の生徒たちに親しみを持って笑われながら、困ったように白い頬を赤く染めていた。




───眩しい。

目を焼くような光景。

そしてその輪郭をなぞるように少し離れた場所に、フレデリックの姿があった。


側近と事務的な話をしながらも、彼の視線は時折ふとした瞬間にエレノアの方へと向けられる。

それは、まだ恋の熱を帯びたものではない。

けれど、未知の特性を持つ希少な魔石を観察するような、静かで深い興味の眼差し。

私はその視線の行方を見ているのが、自分の心臓を直接握りつぶされるよりも苦しかった。


「……また、一人で難しい顔をしていますね」

背後から降ってきた静かな声に、肩がびくりと跳ねる。

振り返ると、いつものように感情を読み取らせない微笑を浮かべたルーカス先生が立っていた。

「先生……」


「そんなところで亡霊のように立ち尽くしていては、不審者として通報されてしまいますよ」

「失礼ですわね。私はただ、風に当たっていただけです」

刺のある返しをしながらも、強張っていた肩の力がふっと抜けるのを感じる。

彼は私の隣に並び、私と同じように窓の外の中庭へと視線を投げた。


「エレノア嬢はすっかり学園の人気者ですね。彼女の周りには、いつも温かな空気が流れている」

「ええ。彼女はきっと、誰からも好かれる運命にあるのでしょう」

自分でも驚くほど平坦な声だった。感情を殺した私の言葉。

けれど彼は何も言わず、ただその沈黙で私の浅い誤魔化しを静かに、けれど慈悲深く見透かしているようだった。


「……殿下も、彼女を随分と気に入っていらっしゃるようですし」




──ぽつりと、零すつもりもなかった本音が漏れた。

言った瞬間に、ひどい自己嫌悪が込み上げてくる。

何を言っているのだろう、私は。

まるで、彼女に殿下の関心を奪われるのを恐れる嫉妬に狂った女みたいではないか。


けれど、ルーカス先生は笑わなかった。

「殿下は人を見る目が非常に鋭い方ですから。優れた資質を持つ者に目を留めるのは、支配者としての本能でしょう」

「それは何の肯定にもなっておりませんわ。むしろ私の不安を煽っております」

「否定もしません。真実ですから」


さらりと言ってのける彼に、私は思わず眉を寄せて不満げな視線を向けた。

するとルーカス先生は、まるで私の子供じみた反抗を面白がるように少しだけ困ったように眉を下げて笑った。

「レティシア嬢。殿下が誰に興味を抱こうと何に目を向けようと、それによってレティシア・トムソン・イーデンという存在の価値が変わるわけではないでしょう」


その言葉に私は言葉を失い、視線を伏せた。

価値。

そんなもの、考えたこともなかった。

私はただ物語の結末を違えないように、あるいは公爵令嬢として、婚約者として、そして“悪役”として…。

誰からも指を差されないように“正しく”いなければならない、と自分を律してきただけだ。


そのどれにもなりきれず、私はずっと、中途半端な場所で揺れ続けている。

「……先生は時々、全てを簡単そうに仰いますわね」

「難しく考え自分を袋小路に追い込むのは、あなたの悪い癖です」

「またそうやって私を子供のように。これでも私は……」

「子供扱いなどしていませんよ。ただ、今は少し自分を休ませろと言っているだけです」


一際強い風が回廊を吹き抜け、私の髪を乱した。

中庭ではエレノアがまた弾けるように笑っていた。

そこへフレデリックがごく自然な足取りで歩み寄っていく姿が、網膜に焼き付く。

胸の奥が、毒を含んだ棘でちくりと刺されたように痛んだ。


私は、無意識にその光景から視線を逸らした。

すると、それを察したかのように不意にルーカス先生が口を開いた。

「……図書室へ、行きましょうか」


「図書室?」

「午後の講義まで、まだ僅かに時間があります。あそこの奥まった閲覧席なら、今のあなたに必要な静寂が確保できる」

ほんの少しの迷いの後、私は黙って頷いた。

フレデリックの優しさに晒されるのも、エレノアの光に灼かれるのも、今はもう限界だった。




───……


図書室の奥は昼間でも薄暗く、埃の舞う静謐な空気に満ちている。

窓際の一番端の閲覧席へ腰を下ろすと、ようやく肺の奥まで空気が入るような気がした。

私は手近な本を適当に開き、文字を追うふりをする。

けれど、やはり内容は頭に入ってこない。


ルーカス先生は向かいの席に腰を下ろし、何も言わずに持参していた書類にペンを走らせていた。

その、私を無視してくれる静けさが、今は何よりも有り難かった。


「……先生」

「はい」

「私は、やはり酷い女なのでしょうか」

顔を伏せたまま、震える声で問う。

しばらくの間、羽根ペンの走る音だけが周囲を満たした。


「どうして、そう思われるのです」

「殿下の完璧な優しさに息苦しさを覚え、エレノアさんの真っ直ぐな善意に苛立って……その癖に今後の展開を怖がっている。……我ながら、吐き気がするほど面倒な人間ですわ」

自嘲気味に、乾いた笑みを漏らす。

すると彼は小さく、けれど深い溜息を吐いた。


「この世に、面倒でない人間など一人もいませんよ。もしいるとすれば、それは魂のない人形だけだ」

「……慰めになっていません」

「慰めるつもりもありませんので。ただの事実です」


突き放すような物言いに、私は不意を突かれて吹き出してしまった。

その僅かな笑い声に反応するように、愛おしむように、ルーカス先生が瞳を僅かに細めた。


「……少なくとも今は、無理に答えを出す必要はないでしょう」

穏やかな、けれど確かな響きを持った声だった。

私を正しい道へ導こうとはしない。

泥沼に沈む私を無理やり救おうともしない。

ただ“今、ここにそのままでいてもいい”と、私の不完全さをまるごと許容してくれるような温度。


だからこそ、この人は危険なのだ。


私は彼から視線を逸らし、窓の外を眺めた。

いつの間にか夕陽が静かに傾き始め、世界を赤黒い影へと染め変えていく。


まばゆい光が落ちていく、この終わりの時間。

全てを飲み込み、輪郭を曖昧にするこの薄闇の中だけが、今の私には唯一自分らしく呼吸できる居場所のように感じられた。

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