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影の居場所

その日の放課後。

私は1人図書室の最奥に位置する閲覧席で、古びた魔導書を開いていた。


高い天井まで届く書架が並び古書特有の乾いた紙の匂いと静寂が支配するこの空間は、騒がしい現実から私を切り離してくれる唯一のシェルターのはずだった。

けれどどれほど目を凝らしても並んだ文字はただの記号として網膜を滑り落ち、一向に意味を成して頭の中へは入ってこない。

閉じた瞼の裏側に浮かんでくるのは…。

無邪気に、そして残酷なまでに瑞々しく笑うエレノアの姿と、それを穏やかな、けれど隠しきれない関心を孕んだ瞳で見つめるフレデリックの姿ばかりだった。




──シナリオは確実に歩みを進めている。

胸の奥を冷たい風が吹き抜けていく。

それはまだ本人たちさえ自覚していない程に小さな、水面に落ちた一滴の雫のような予兆に過ぎない。

けれど確実に、そして抗いようのない力で。

シナリオという名の巨大な鋼の歯車が錆びた音を立てて動き始めているのを、私は肌が粟立つような感覚で捉えていた。

運命が加速していく。




「難しい顔をされていますね、レティシア嬢」

沈黙を切り裂くように、静かな声が鼓膜を揺らした。

顔を上げるといつの間にかルーカス先生が目の前に立っていた。

夕刻の淡い光を背負った彼は、その輪郭を影に溶かしながら私の向かい側の席へ音も立てずに腰を下ろす。


「また、1人で答えの出ない余計なことを考えておられるのでしょう」

「……余計なこと、とは失礼ですわね。私なりに、これからの展望…公爵令嬢としての振る舞いを練っていたところです」

強がりの言葉を返しても、先生の瞳の奥は私の薄っぺらな虚勢をすべて見透かしているようだった。


「では訂正しましょう。レティシア嬢、あなたは……自分を苦しめることに関してだけは、稀代の才能をお持ちだ」

あまりに的確で、かつ皮肉めいた指摘。

私は思わず小さく力なく笑ってしまった。


ルーカス先生はそれを見て僅かに目を細める。

その眼差しは教師が教え子に向ける慈愛よりも、もっと暗くて。

深い場所を探り当てるような鋭い熱を帯びていた。


「……少しは、息ができていますか?」

不意に投げかけられたその問いに、私はすぐには言葉を返せなかった。


殿下の隣は確かに温かい。

望みうる最高の栄誉と、誰もが羨む守護がそこにはある。

エレノアの放つ光はこの世界において疑いようのない絶対的な正義だ。

彼女の側にいれば、私は正しい道を見失わずに済むのかもしれない。


けれどそのどちらの前でも、私は“ちゃんとしていなければ”という強迫観念に喉を締め上げられる。

完璧な、王子の婚約者。

高潔な、非の打ち所がない公爵令嬢。

あるいはこの惨めな物語を完遂させるための、誇り高い悪役。


どれもが今の私を縛り上げる、豪華な刺繍の施された窮屈な枷だった。

どれほど着飾ってもどれほど淑やかに振る舞っても。

内側にある恐怖が肺を圧迫し、呼吸を浅くさせる。


「先生」

気づけば、縋るような思いで重く湿った言葉を零していた。




「私は……どこにいればいいのでしょうね」

この広すぎる学園のどこかに、あるいはこのあらかじめ書き込まれた運命の筋書きの中に。

私が仮面を剥ぎ取った一人の人間として立っていられる場所は、果たして残されているのだろうか。


ルーカス先生は少しの間、深い沈黙を守った。

図書室の古い柱時計が刻む1秒1秒を切り刻むような秒針の音だけが、私たちの間に横たわる静謐な時間を数えていく。

やがて彼は静かに、そして逃げ場のないほど甘やかな毒を含んだ口調で答えた。

「居場所というものは、誰かに与えられるものではありません。ましてや、王族や光り輝く乙女が用意してくれるような白々しい席でもない」

彼は手元に置いていた教本を、ゆっくりと儀式のように閉じた。


「……ですが、少なくとも私は、レティシア嬢が無理に笑わなくてもいい場所くらいにはなれますよ。あなたがどれほど醜く歪み泥にまみれていたとしても、私はそれを見逃したり、ましてや正そうとしたりはしませんから。その暗がりにこそ、私は価値を感じる」


優しい声だった。

それは決して、天から差し伸べられる救済の光ではない。

明るい未来へと迷える子羊を導く、聖者の慈悲でもない。

ただ“ここでなら誰にも見られず、汚れたままの姿で呼吸をしてもいい”と。

理想を演じることに疲れた私をそのままの歪な形で見つめることを許されるような、背徳的な肯定。


だからこそ、危険なのだ。

フレデリックのまばゆい光よりも、エレノアの汚れなき眩しさよりも。

私の不実をまるごと飲み込んでくれるこの底冷えするような静かな影の方が、今の私を深く、奥底まで蝕んでいく。


私は、彼から逃げるように視線を落とした。

「……先生は、本当に、救いようのないほどずるい方ですわね」

「最大限の褒め言葉として、謹んで、光栄に受け取っておきましょう」


ふと窓の外を見れば、燃えるような夕陽が地平線の向こうへと静かに沈み夜の予感を連れてきていた。

眩しい光が地に落ち、すべてが曖昧な灰色に染まっていく黄昏時。

世界がその輪郭を失っていく、この薄闇の中だけが。

今の私には、唯一許された本当の意味での安息の場所のように感じられた。

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