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静かに滲む

温室での一件以来、私の周囲の空気は目に見えない微かな波紋に絶えず揺らされるようになった。

その中心にいるのは、いつもエレノアだった。


彼女は以前よりも頻繁に、そして驚くほど自然に私へ話しかけてくるようになった。

朝、廊下の向こうから私を見つけた時の瑞々しい挨拶。

講義の合間、解読に苦戦している魔導書を抱えて私の席へ寄ってくる時の遠慮がちな足音。

図書室の奥まった席で偶然顔を合わせた際、秘密を共有するかのように輝かせる瞳。

そのどれもが、暴力的なまでに無邪気だった。


「レティシア様、この前教えていただいた薬草の本、すごく面白かったです! 挿絵の魔法植物、実際に見てみたくて温室でずっと探してしまったんですよ」

「レティシア様って、本当に物知りですよね。私もっとレティシア様からいろんなことを教わりたいです!」


悪意がない。

そこに一点の曇りも計算も、私を貶めようとする意図も存在しない。

だからこそ、私はどうしようもなく困り果てていた。


彼女は私が向ける言葉の棘に、その都度小さく傷つき、睫毛を震わせる。

それなのに、次の瞬間にはまた何事もなかったかのように柔らかな笑みを浮かべて私の隣に立っているのだ。

まるで、こちらの拒絶など最初からこの世界に存在しないかのように。


「…エレノアさん。少し距離を弁えてくださる? あまり私につきまとわないでいただきたいわ」

精一杯の冷徹さを込めてそう告げても。

エレノアは困ったように、けれどどこか温かさを湛えた微笑を返すだけだった。


「ごめんなさい、不快にさせてしまって。でも、レティシア様とお話ししていると……なんだか、すごく安心するんです」

その言葉を投げかけられるたび、私の胸の奥がざわつく。




───安心?

罪悪感で塗り固められた私が、彼女に安らぎを与えているというのか。

あなたは、何も知らないだけだ。

私がどれほど醜い心を隠し持ち、あなたの眩しさに目を焼かれ、その光を消してしまいたいとさえ願っている“偽物”であるということを。




「楽しそうだな、2人とも」

冷ややかで低い、けれど心地よく響く声が、私たちの間の空気を切り裂いた。

振り返れば、そこにはいつの間にかフレデリックが立っていた。

陽光を背負って立つその姿は、一瞬、神話の英雄が降臨したかのような錯覚を抱かせる。


「フレデリック殿下!」

エレノアが弾かれたように背筋を伸ばし、慌てて頭を下げる。

彼は穏やかに微笑みながら私の隣へ歩み寄ると、当然の権利を行使するように、ごく自然な動作で私の肩へ手を置いた。


「レティ。約束の昼食の時間だよ。迎えに来た」

いつもの、耳に心地よい優しい声音。

けれど殿下の視線は私に注がれた直後、一瞬だけ傍らに立つエレノアへと向けられた。

それは一見すれば温厚な眼差しだった。

だがその奥では静かに相手を分析し、解体し、観察するような鋭さが細められていた。




───興味。

今の時点では、それはまだ決して恋などではない。

けれど私は知っている。

フレデリックは自分にとって“有用なもの”や“稀有なもの”を見つけると、執拗に目を留める癖があることを。


平民の出身でありながら高位貴族さえ凌駕する魔力を持ち、なおかつ誰にでも真っ直ぐにぶつかっていく人心掌握の才能。

エレノアという存在は完璧な統治者たらんとする彼にとって、きっと何よりも興味深い観察対象なのだ。


「エレノア嬢、昼食はもう取ったのかな?」

「え? あ、はい! これから食堂へ行こうと思っていたところで……」

「そうか。なら急いだ方がいい。今日は確か、君たちの寮で人気のメニューが出ると聞いていたからね」

柔らかな気遣い。

王族としての非の打ち所がない慈悲深さ。

それだけだった。

フレデリックにとっては足元に咲く珍しい花に声をかける程度の、深い意味のないやり取りだったはずだ。




それなのに。

エレノアまるで全身で光を浴びた花が綻ぶように、満面の笑みを浮かべた。

「ありがとうございます、殿下! お気遣いいただけて光栄です!」




───駄目だ。

その光景があまりにも眩しすぎて。

私は耐えきれず、わずかに視線を逸らした。

隣に立つフレデリックの熱と、目の前のエレノアが放つ純粋なエネルギー。

二つの強烈な個性に挟まれ、自分の輪郭が霧散していくような恐怖が背筋を這い上がる。


彼そんな私の微かな動揺を見逃さなかった。

肩へ置いた手に、意識的にわずかな力が込められる。

それは引き寄せるための力であり、同時に一歩も外へ出すまいとする拘束の合図だった。


「レティ?」

「……何でもありませんわ、殿下」

「そうか。ならいいんだ」

彼は満足げに微笑む。

その横顔は慈愛に満ちた聖者のようであり、同時に獲物を捕らえた捕食者のようでもあった。


優しく、完璧に。

そして一筋の逃げ場も与えないまま。

私はフレデリックの腕に抱かれながら、エレノアが遠ざかっていく背中をただ見送ることしかできなかった。

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