波紋の温室
フレデリックと昼食を共にした後も、その息苦しさは一向に晴れなかった。
食事の間、彼はどこまでも優しかった。
私が昨晩から疲弊していることを察し、無理に会話を繋ごうとはせず、ただ穏やかな微笑みを湛えて私の側にいてくれた。
それなのに。
その完璧な配慮の中に身を置くほど、私は見えない壁にじわじわと追い詰められていくような感覚に陥る。
比較してはいけないと分かっていても、記憶の中の夫を呼び出してしまう。
彼はこんな風ではなかった。
もっと静かで、不器用で。
私が言葉に詰まれば、彼は彼で所在なげに視線を彷徨わせるような人だった。
私が逃げ場を失わないようただ静かに、対等な温度で隣にいてくれる人。
けれど、フレデリックは違う。
優しく、正しく、そして残酷なまでに完璧なまま、私の周囲を隙間なく埋め尽くしていく。
“逃がさない”という強固な意志が、その穏やかな振る舞いの端々に透けて見えるのだ。
その事実に気づいてしまったからこそ、私は殿下が放つ正統な光が怖かった。
───……
気づけば私は、吸い寄せられるようにアカデミーの大温室へ足を向けていた。
一年中緑が絶えないこの場所は昼休みを過ぎれば薬草学専攻の生徒が稀に出入りする程度で、人目が少ない。
今はただ、誰の視線も届かない場所で、一人になりたかった。
重い真鍮の扉を押し開く。
途端に、湿った土の匂いとむせ返るような青草の香りが肺いっぱいに広がった。
昨夜の雨が残した雫が、温室の硝子を淡く濡らしていた。
朝の光を浴びた水滴は、一つひとつが研磨された宝石のように輝いている。
世界はこんなにも瑞々しく美しい。
それなのに私の胸の内側だけが、湿った鉛を詰め込まれたように重苦しかった。
「……あ」
先客がいた。
温室の奥、陽光が降り注ぐ棚のそばにいたのはエレノアだった。
彼女は制服の上にエプロンを纏い、小さな薬草の鉢を丁寧に並べ替えている。
硝子越しに差し込む柔らかな光を受けて、彼女のストロベリーブロンドが淡く発光しているように見えた。
「レティシア様!」
私に気づいた彼女は、弾むような声を上げて顔を輝かせた。
その反応があまりにも無防備で、私は思わず言葉を失う。
昨日あれほど冷酷に恥をかかせ、突き放した相手に向ける顔ではない。
普通なら姿を見ただけで身を強張らせ、逃げ出すのが当然の筈なのに。
「……何をしているのですか、こんなところで」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど硬かった。
エレノアはそんな私の態度など気にする様子もなく、嬉しそうに背後の薬草棚を振り返った。
「薬草学の課題なんです! この温室、本当に素敵ですよね。見たこともない植物がいっぱいで、図鑑で調べるのが追いつかないくらいなんです!」
屈託のない声。
打算も私に対する警戒心も微塵も感じられない。
そのあまりの眩しさに、胸の奥がざわざわと波立つ。
「普通の令嬢なら、私を避けるでしょうね」
「え?」
「忘れたのかしら? 昨日、私は大勢の前であなたを辱めたのですよ。……それなのに、どうしてそんな風に笑いかけてくるのです」
エレノアはきょとんと目を丸くして瞬きをした後、少しだけ困ったように眉を下げて笑った。
「でも、レティシア様。本当は、とっても優しいです」
──また、それだ。
どうしてこの子は、これほどまでに真っ直ぐに私を見つめてくるのか。
その瞳に映る私は、きっと実物よりもずっと綺麗な形をしているに違いない。
「……勝手に、自分の理想を私に押し付けないでくださる?」
自分でも驚くほど冷淡な声が出た。
エレノアがぴくりと肩を震わせる。その小さな反応に、刺すような痛みが胸を走った。
私は何をしているのだろう。
彼女を傷つけたいわけではない。
むしろ、その逆なのだ。
これ以上私に近づかないで欲しい。
その純粋な光で、私の内側を暴かないでほしい。
「レティ?」
不意に背後から別の声が割って入った。
振り返ると温室の入り口にフレデリックが立っていた。
逆光の中に立つ彼の輪郭は、神々しいほどに整っている。
「殿下……」
「探したよ。昼食を終えた後、急に姿が見えなくなったから」
穏やかな声音。
けれどその双眸は真っ直ぐに私だけを射抜いていた。
「……少し、1人になりたかっただけですわ。騒がしい場所を離れたくて」
「なら、そう言ってくれればよかった。私が君に相応しいもっと静かな場所へ案内したのに」
フレデリックは当然のような足取りで歩み寄り、私の隣に立った。
その圧倒的な存在感に気圧されるように、エレノアが遠慮がちに一歩後ろへ下がる。
「エレノア嬢もいたのか」
「は、はい! 失礼いたしました!」
エレノアが慌てて背筋を伸ばし、最敬礼を送る。
フレデリックはそれに対し、慈悲深い王族そのものの仕草で柔らかく微笑みかけた。
「薬草学の課題だったかな。熱心なのは良いことだ。感心するよ」
優しい声音。
完璧な気遣い。
なのに、エレノアの身体はどこか強張っているように見えた。
きっと彼女も無意識のうちに感じ取っているのだ。
彼が微笑みの裏側に隠し持っている、他人を寄せ付けない圧倒的な“圧”を。
「レティは昔から、無理をすると一人になりたがる癖がある」
不意に、彼が私の髪に触れた。
「けれどあまり感心しないな。君はすぐ自分一人で何もかも抱え込もうとするだろう?」
その言葉はどこまでも優しい。
優しいのに、逃げ道がまったくない。
私の思考も行動も、全ては彼の掌の上にあるのだと言外に告げられているようだった。
私は思わず、その視線から逃れるように俯いた。
「……申し訳ありません」
「謝る必要はないよ。ただ、これからは私を頼ってほしい」
フレデリックはそう言って、愛おしむような手つきで私の髪を梳く。
けれど、その指先が頭皮に触れる度に“君は僕のものだ”という消えない烙印を刻みつけられているような錯覚を覚えた。
「殿下、その、私……」
空気が薄い。
うまく呼吸ができない。
温室の湿った空気がじっとりと肌にまとわりついてくる。
──その時だった。
「おや。皆さん、こちらにおられたのですね」
低く、落ち着いた声が温室内に響き渡った。
入口に立っていたのは、ルーカス先生だった。
小脇に教本を抱え、瞳にはいつも通りの穏やかな微笑が浮かんでいる。
「ルーカス先生!」
エレノアが目に見えてほっとしたように声を上げた。
その素直な反応に私は微かな驚きを覚える。
彼女は本能的に、この場に満ちていた異様な緊張感から救いを求めていたのかもしれない。
「午後の講義に使う資料をお忘れのようでしたよ。レティシア嬢」
ルーカス先生は、私付きの家庭教師であった頃と変わらぬ自然な口調で私へ数枚の紙束を差し出した。
「……ありがとうございます、先生」
それを受け取ろうとした、一瞬のこと。
私の指先が、彼の指に触れた。
たったそれだけの、ほんの僅かな接触。
なのに、殿下の前で張り詰めていた神経が一瞬だけ音を立てて緩みそうになる。
氷のような冷たさを湛えた彼の気配が、私の内側の熱を静かに鎮めていく。
その安らぎに似た感覚に、私は自分で自分に愕然とした。
「レティ?」
殿下の声が、低く鼓膜を揺らす。
はっとして顔を上げると、フレデリックはまだ微笑んでいた。
いつも通りの表情。
けれど、その瞳は獲物を射抜く直前の獣のように静かに細められている。
「随分と、ルーカス殿には懐いているようだね」
ぴたりと、温室の空気が止まった。
エレノアが不安そうに視線を彷徨わせる。
ルーカス先生だけが、表情一つ変えずに静かに一礼した。
「恐れながら殿下。私はただ、かつての教え子が熱心に学ぶ姿を案じているだけですよ。教師としての務めです」
「……そうか」
殿下は笑う。
笑っているのに、温室内の温度が急激に下がったような錯覚を覚えた。
私は無意識に、手の中の資料を強く握り締める。
眩しすぎる正統な光。
あまりに無垢な、純白の善意。
そして、すべてを飲み込む静かな影。
汗ばんだ掌の中で、紙束がじわりと湿り気を帯びていった。




