光の温度
魔法史の講義終了を告げる鐘の音が、重厚な石造りの校舎に響き渡った。
その音を聞いた瞬間、私は自分がひどく摩耗していることに気づかされた。
教壇に立つ老教授が羊皮紙をめくりながら滔々と語る、古代魔法の変遷や魔力の循環理論……それらは私の耳を通り抜けて、どこにも定着せずに霧散していった。
脳裏を支配しているのは、自分の内側で渦巻く実体のない焦燥ばかりだ。
重い足取りで講義室を後にしようと人混みに紛れた、その時だった。
「レティシア様!」
また、あの声だ。
振り返るまでもなく、心臓が跳ねるような感覚で分かってしまった。
エレノアだった。
彼女は小さな体で、溢れんばかりの分厚い魔導書を両手に抱えてこちらへ駆け寄ってこようとしていた。
だが慌てすぎたのか、彼女の足元がふらりと揺れる。
腕の中から、数冊の本が鈍い音を立てて石畳の廊下へ盛大に散らばった。
「あっ……!」
廊下を行き交う貴族階級の生徒たちは、一瞬だけ蔑むような、あるいは無関心な視線を向けただけで、誰1人足を止めることなく彼女の横を素通りしていった。
入学式ではあんなにエレノアを持て囃していた癖に。
特待生として特例で入学した平民の失敗には手を貸す価値もないと言わんばかりの、冷淡な沈黙。
私は、反射的に動いていた。
考えるよりも早く身体を屈め、足元に滑ってきた一冊を拾い上げていた。
公爵令嬢としての矜持や彼女を避けなければならないという理性が、一瞬だけ無防備な少女への同情に負けたのだ。
「ありがとうございます!」
エレノアがぱっと顔を輝かせた。
至近距離でぶつかったその視線。
彼女のアクアマリンの瞳に向けられた笑顔があまりにも無垢で、濁りがなくて……。
私の胸の奥が、鋭い刃で刺されたように痛んだ。
「……次からは気をつけなさい。廊下は走る場所ではありませんわ」
私はあえて、ぶっきらぼうな声を投げた。
拾い上げた本を押し付けるようにして彼女の手に戻す。
冷たく接したつもりだった。
嫌悪感を滲ませ、彼女を突き放したつもりだった。
それなのに、エレノアは弾かれたようにさらに嬉しそうな潤んだ瞳で私を見つめた。
「レティシア様って、本当は、とっても優しい方なんですね」
───その瞬間。
身体中の血が、一気に凍りついたような錯覚に陥った。
「……は?」
「だって、皆さま素通りして、私のことなんて見て見ぬふりでしたのに。レティシア様だけは、こうして私を助けてくださったから」
悪意の欠片もない声。
裏表のない純粋な感謝。
だからこそ、私は耳を塞いで叫び出したくなった。
違う。
私は、そんな人間じゃない。
優しくなんてない。
私はあなたの“敵”なのだ。
「勘違いしないでちょうだい」
私は勢いよく立ち上がった。
公爵令嬢としての冷徹な仮面を被り直し、彼女を見下ろす。
「私はただ、目の前で本を散らかされるのが目障りだっただけよ。公爵家の名を冠する私が、アカデミーの廊下でこれほど無様な光景を放置しておくわけにはいかなかった……それだけのことですわ。誰であっても同じことをしました」
「それでも、私は嬉しかったです! レティシア様にお声をかけていただけて!」
エレノアは怯えるどころか、春の花が綻ぶように笑った。
その屈託のない表情が、私の内側にある“汚れ”や“偽善”を無理やり照らし出していく。
やめて、そんな風に笑わないで。
───「レティ」
不意に、背後の頭上から重みのある声が落ちてきた。
ゆっくりと振り返ると、そこにはフレデリックが立っていた。
いつから、そこにいたのだろう。
いつから私たちのやり取りを見つめていたのだろう。
彼は壁に背を預けることもなく、凛とした佇まいでこちらを見つめていた。
「昼の約束を忘れてしまったのかと思ったよ。なかなか来ないから、迎えに来た」
穏やかな笑み。
声にも棘はない。
けれど彼の視線が一瞬だけ、私の隣にいるエレノアへと向けられ、静かに細められたのを私は見逃さなかった。
獲物を品定めするような、凍てつく温度。
エレノアがぴくりと肩を震わせた。
「エレノア嬢」
フレデリックは優雅な所作を崩さずに微笑みを深める。
「……あまり、私の婚約者を独占しないでくれると助かるんだが?」
冗談めかした口調。
だが、その場の空気は一瞬にして塗り替えられた。
彼の放つ目に見えない拒絶。
エレノアは顔を青くし、慌てて後ずさった。
「も、申し訳ありません! 殿下、レティシア様……! 私は、ただお礼を言いたくて……」
「そんなに怯えなくていいよ。君が悪いわけじゃないんだ。ただ、私と彼女の時間も大切にさせてほしいだけだよ」
フレデリックあやすように優しく笑う。
完璧な、絵本から抜け出したような正義の王子の顔。
なのに私は、その美しい笑顔の奥に心が凍りつくような冷たい“何か”を感じ取ってしまった。
「行こう、レティ。中庭の席はもう用意させてある」
自然な動作で、彼の手が私の腰へと回された。
優しく抱き寄せているようでいて、その実は、私の逃げ場を完全に封じ込めるような強固な拘束。
「……はい、殿下。お待たせして申し訳ありません」
私は、振り返ることができなかった。
背後から聞こえる、エレノアの小さく震えながらも懸命な「またお話してくださいね!」という声が、遠ざかる意識の中で虚しく響いていた。
私は、エレノアの向けた無垢な感謝からもフレデリックの向けた執着に満ちた愛情からも、ただ静かに逃げ出したいと願うことしかできなかった。




