黄金の檻
翌日の重いカーテンの隙間から差し込む朝日は、昨日までの憂鬱を無理やり引き剥がすほどに鮮烈だった。
けれどその眩しささえも今の私には酷く不快な、場違いなものに感じられた。
王立魔法アカデミーの朝は、静謐な公爵家のそれとは比べものにならないほど騒がしい。
石畳を行き交う生徒たちの、飾り気のない笑い声。
遠くの魔法実習場の方から時折響いてくる、訓練用の魔力弾が弾ける爆発音。
風にそよぐ色とりどりのローブは、まるで世界そのものが新しい時代への期待に浮き立っているかのようだ。
けれど、私は違う。
鉛を飲み込んだように胸の奥が重く沈んでいた。
「レティ、どうした?」
不意に横から声をかけられ、私は肩を震わせた。
隣を歩くフレデリックが、慈しむような、けれどどこか逃げ場を許さない眼差しで私の顔を覗き込んでいる。
私は反射的に顔の筋肉を動かして、完璧な微笑みを貼り付けた。
何年もかけて磨き上げてきた、公爵令嬢としての仮面だ。
「何でもありませんわ、殿下。少し、昨晩の賑やかさが耳に残っているだけです」
「嘘だな」
彼は即座に、そして断固としてそう断じた。
声音はどこまでも穏やかで、響きは甘い。
けれど、その断定には妙な拒絶のなさ、逃げ場のなさがあった。
「君は昔から、苦しい時ほど綺麗に笑う。そして、その瞳は決して僕を見ようとしない。……君は入学してからどこかずっと苦しそうだ」
フレデリックは歩みを止めることなく、ごく自然な仕草で私の髪に触れた。
指先が耳元を掠め、柔らかに流れる髪を整える。
その親密な仕草に、周囲を行き交う令嬢たちが小さく息を呑む気配がした。
完璧な、そして理想的な婚約者同士。
きっと周囲にはそう見えているのだろう。
「…殿下。人前ですわ。皆が見ております」
「婚約者に触れることの何が問題なんだ?」
さらりと言い切る。
そこに羞恥も迷いもない。
王族として育った者特有の“許される側”の余裕。
彼はそのまま私の肩を抱き寄せるように歩き出した。
逃がさないと言わんばかりの、柔らかくも力強い抱擁。
「今日はこの後、魔法史の講義だったな。終了後は私のところへ来るといい。昼を一緒に取ろう」
「……ですが、殿下もお忙しいのでは。学生会の会合もおありでしょう?」
「忙しいからこそだよ」
フレデリックは立ち止まり、私を見下ろして微笑んだ。
その瞳には純粋な愛情と、それと同じくらい深い執着が宿っている。
「君といる時間くらい、僕自身で選びたいんだ」
甘い言葉だった。
けれどその優しさは時折、息苦しいほど完璧だった。
彼は私が断る余地を、拒絶する隙間を、1ミリも与えない。
柔らかく、けれど強固に囲い込んでくる。
それは、どれほど美しく磨き上げられていたとしても外に出ることを許さない“黄金の檻”に他ならなかった。
「……はい」
結局、私は頷くことしかできなかった。
彼の望みに従うことが、この世界で悪役令嬢としての役割を全うする道だと自分に言い聞かせながら。
───その時だった。
「あっフレデリック殿下!レティシア様!」
弾むような明るい声が響いた。
振り返ると、人混みを縫うようにしてエレノアが駆け寄ってくるところだった。
朝日に透けてキラキラと輝く、ストロベリーブロンドの髪。
屈託のない笑顔。
それだけで、周囲の重苦しい空気が柔らかく塗り替えられていくのが分かった。
「昨日は、その……失礼しました!」
彼女は私の目の前で足を止めると、勢いよくぺこりと頭を下げた。
「私、貴族の礼儀作法とか全然分からなくて……でも、レティシア様のお言葉、昨晩ずっと考えて、ちゃんと反省したんです! 私が至らないせいで、皆様にご迷惑をおかけしてしまったって」
……なんて、眩しいのだろう。
普通なら昨夜あのように冷酷に突き放されれば、嫌われたと思って距離を取るはずだ。
それなのに彼女は、怯えながらも真っ直ぐこちらを見ている。
そのアクアマリンの瞳には、私という人間の中に潜む不純なものなど何1つ映っていないようだった。
「それで、もし、もしもご迷惑じゃなければ……また色々教えていただけたら嬉しいなって……」
無防備な善意。
打算のない献身。
胸がざわつく。
───どうしてそんな目で私を見るの。
私は、悪役なのに。
あなたの未来に立ちはだかる、光の届かない場所の住人なのに。
「エレノア嬢」
不意にフレデリックが穏やかに口を挟んだ。
彼の手は依然として私の肩を抱いたままだ。
殿下は微笑みすら浮かべたまま、エレノアを静かに見下ろした。
「レティは少し疲れているんだ。あまり彼女を困らせないであげてくれるかな?」
柔らかな声音だった。
冷たく突き放したわけでも、威圧したわけでもない。
あくまで、婚約者の体調を気遣う優しい王子としての振る舞いだ。
けれど。
その瞬間、エレノアがぴたりと言葉を止めた。
まるで見えない透明な壁が、私たちの間へ音も立てずに滑り込んできたようだった。
彼女の笑顔が微かに固まり、アクアマリンの瞳に戸惑いが広がる。
「……っ、あ、ご、ごめんなさい! 私、出過ぎたことを……」
エレノアは慌てて、先ほどよりも深く頭を下げ慌てて去っていった。
私は胸の奥が冷えるのを感じた。
フレデリックは彼女を責めていない。
むしろ丁寧な物腰だ。
なのに、逆らえない。
空気そのものを光で塗り潰して支配するような、絶対的な支配者の圧。
エレノアが去り際に見せた、申し訳なさそうな、けれどどこか寂しげな顔が頭から離れない。
彼女の無垢な善意を、フレデリックは音も立てずに握りつぶしたのだ。
「…フレデリック殿下」
思わず隣の彼を見上げ、その名前を呟いた。
殿下はこちらを見下ろすと、何事もなかったかのように微笑んだ。
「どうした?」
「……いえ。何もありませんわ」
何も言えなかった。
殿下の腕の中は温かい。
守られている安心感すらある。
なのに、どうしてこんなにも息が詰まるのだろう。
彼から放たれるのは、救いようのないほどに純粋な光だ。
けれどその光が強ければ強いほど、私の足元に伸びる影は色濃くなっていく。
夫を裏切り、ルーカス先生の影に安らぎを求め、そして殿下の光に焼き殺されそうになっている、矛盾だらけの私の影が。
「さあ、行こうか。教室まで送るよ」
フレデリックの腕がさらに強く私の肩を引き寄せる。
その温もりは、どこか私を縛り付ける、逃げ場を許さない鎖のように感じられた。
私は彼の歩調に合わせ、ゆっくりと歩き出す。
フレデリックの光に閉じ込められながら。
私は1歩ずつ、自分が望んだ自身を滅ぼしていく未来へと進んでいく。
黄金の檻の中で。
私は自分が少しずつ壊れていく音を、この輝かしい朝の喧騒の中に聞き続けていた。




