幕開け
王立魔法アカデミーの正門をくぐった瞬間、空気の密度が変わったのを感じた。
歴史の重みを感じさせる石造りの校舎。
手入れの行き届いた広大な庭。
そしてそこを行き交う若き貴族たちの熱気。
それは本来、希望に満ちた学び舎の風景であるはずなのに。
私にとってはいつ誰に刺されるともしれない、薄氷の上の戦場だった。
新入生が集まる大講堂へと向かう廊下。
私は公爵令嬢としての完璧な所作を崩さず、前だけを見据えて歩いていた。
隣には私の婚約者、フレデリック殿下が傲慢なまでの威風を纏って並んでいる。
「…緊張しているのか? 手が冷たい」
殿下が、人目を忍ぶように私の指先に触れた。
その熱に心臓が跳ね、私は咄嗟に手を引いてしまう。
「いいえ。少々空気に圧倒されただけですわ」
「殊勝なことだ。…私がいるのだから何も案じる必要はない」
不器用な優しさ。
また1つ、夫への罪悪感が胸を突く。
そしてその数歩後ろには、特別講師として招かれたルーカス先生。
彼は私をまるで監視し守護するように静かに付き従っていた。
先生と目が合う度に、その瞳は「逃がさない」と囁きかけてくるようで。
私は過去の亡霊に首を絞められるような錯覚に陥る。
そんな私の動揺が一瞬で戦慄へと変わる時が訪れた。
「あ……ごめんなさい!」
講堂の入り口。
人混みの中で一人の少女がこちらにぶつかりそうになり、立ち止まった。
その瞬間。
私の視界から色彩が消え。
彼女という存在だけが鮮烈に浮き彫りになった。
そこにいたのは乙女ゲームのヒロイン、エレノアだった。
まず目に飛び込んできたのは、陽光を溶かし込んだような瑞々しいストロベリーブロンドの髪。
ハーフアップにまとめられたその髪は動くたびに甘い果実のような色彩を放ち、見る者の心を無防備にさせる。
そして、澄んだアクアマリンの瞳。
そこには貴族特有の打算も、私のような絶望も一切なくて。
ただ純粋な好奇心と善意が宿っていた。
顔立ちにはまだ幼さが残るもののその可憐さは、周囲に咲くどんな高貴な花をも霞ませるほどだった。
───とうとう、現れた。
彼女こそが光と闇の両属性をその身に宿す奇跡の子。
エレノアが私を見上げる。
その無垢な瞳に戸惑いの色が混じっている。
一歩、また一歩と。
破滅が足音を立てて近づいてくる。
彼女のストロベリーブロンドの髪が揺れるたび、私の脳裏には断罪の炎がちらついた。
「レティ。どうした?」
フレデリックが不審そうに私を覗き込む。
彼の視線はまだエレノアには向いていない。
「……すみません。少し目眩がしただけですわ。行きましょう、殿下」
私は逃げるようにエレノアから目を逸らした。
背後でルーカス先生が微かに目を細めるのを感じた。
先生は、私が彼女に対して抱いた恐怖を鋭く察知したに違いない。
───しっかり、しないと。
大講堂の席に着き、私は深く呼吸を整えた。
エレノアという名のヒロインが現れた。
それは物語の始まりであり、私の計画の終わりが始まったことを意味する。
私は彼女を殺すことも、憎むこともしない。
彼女が光であるならば、私は彼女を飲み込むほどの深い闇になればいい。
最後の長い戦いの幕が、ついに上がったのだ。
講堂に響く入学の鐘の音。
それは私にとって、運命の審判の合図のように聞こえていた。




