侵食
入学式が終わり、大講堂に満ちていた厳粛な空気は一転して喧騒へと変わった。
新入生たちの興奮した声、ドレスの擦れる音、そしてこれから始まる輝かしい未来を予感させる笑い声。
それら全てが、今の私には鋭利な棘となって突き刺さる。
私の視界の端には、まだあのストロベリーブロンドの残像が焼き付いている。
───エレノア。
彼女は今、どこにいるのだろう。
きっと、その天真爛漫な魅力で早くも周囲の人々を虜にしているに違いない。
乙女ゲームの強制力、あるいは彼女自身の魂が持つ輝きが、この学園という舞台を塗り替えていくのだ。
「レティ、あまり顔色が良くないな。大丈夫か?」
隣を歩くフレデリックが私の顔を覗き込む。
彼の瞳には純粋な案じの色が浮かんでいた。
私は反射的に完璧な令嬢の微笑みを張り付かせる。
「いいえ。少々、人酔いをしてしまっただけですわ。お恥ずかしいところをお見せいたしました」
「そうか。…無理はしないでくれ」
不器用な、けれど誠実さがこもった言葉。
私たちはそのまま本校舎の祝賀会場へと向かった。
クリスタルのシャンデリアが輝き、高価な香水の香りが漂う広間。
本来ならば公爵令嬢として、そして次期王妃候補として、私はこの場所で最も華やかに振る舞わなければならない。
けれど会場に足を踏み入れた瞬間、私の鼓動は激しく波打った。
「見て、あの子…」
「平民特待生だそうよ。可愛らしいわね」
壁際で囁き合う令嬢たちの視線の先。
そこには、エレノアがいた。
彼女は借りてきた猫のように肩をすくめながらも、差し出されたグラスを恐る恐る受け取っている。
その一挙手一投足が、瑞々しい果実のように周囲の視線を吸い寄せていた。
彼女の周りだけ、世界の解像度が高い。
そう錯覚するほどの存在感。
「…レティ?」
フレデリックの視線も一瞬、エレノアの方へと向いていた。
恋の予感などというレベルではなかった。
ただ珍しいものを見たような、そんな微かな揺らぎ。
───けれど、私には分かってしまう。
その微かな揺らぎが、やがて彼を彼女の元へと運ぶ激流の始まりであることを。
今フレデリックが私を想っていようが、関係ない程の力を持つものであることを。
───……
祝賀会での時間は、私にとって拷問に等しかった。
次々と挨拶に訪れる貴族たち。
交わされる社交辞令。
私は公爵令嬢としての正解を叩き出し続けながら、心の中ではひたすら、ここではないどこかへ逃げ出したいと叫んでいた。
「……レティ、やはり顔色が悪いぞ」
不意に、フレデリック殿下が私の耳元で囁いた。
「殿下?」
「私はこれから、父上に呼ばれて大臣たちとの会合に出なければならない。君を守ってやれない。君は、先に休みに行くといい」
「ですが、そのような勝手は…」
「私が許す。…レティ、君は完璧すぎる。少しは私を頼ってくれ」
彼はそう言って、私の肩を一度だけ強く抱き寄せた。
それは彼なりの最大級の愛情表現だった。
「…ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」
私は深く頭を下げた。
殿下が側近たちと共に、重厚な扉の向こうへと消えていくのを見届ける。
それと同時に周囲の喧騒が、再び遠のいていく。
エレノアを囲む輪は、先ほどよりも大きくなっているようだった。
彼女の明るい朗らかな笑い声が、耳の奥でキリキリと音を立てる。
───今はもう、無理だ。
私は逃げ出した。
きらびやかな祝賀会場。
優しすぎる婚約者。
そしてヒロイン。
それらすべてから距離を置くために私はドレスの裾を翻し、人のいない廊下へと足を踏み出した。
行き先などどこでも良かった。
ただ、誰の目にも触れない静かな場所が欲しかった。
本校舎から、少し離れた北校舎へ。
そこは夕暮れ時にはあまり人気がなくなる場所だと聞いていた。
回廊を走る私の足音が、虚しく響く。
夕闇が忍び寄り、窓から差し込む光はオレンジ色から濃い紫へと変色していく。
胸の奥が、軋むように痛む。
前世の夫への思慕が今の自分と混ざり合って、どろどろとした感情になって溢れ出しそうだった。
誰に宛てたものでもない悲鳴が、喉元まで出かかっては飲み込まれる。
───……
辿り着いたのは、北校舎の端にある小さなテラスだった。
石造りの欄干。
冷たい夜気。
私はそこへ転がり込むようにして入り、ようやく一つの深い呼吸を吐き出した。




