光と影の交錯
公爵家の紋章が刻まれた重厚な馬車が、入学を祝う春の陽光を浴びて静かに控えていた。
私にとって、この馬車は単なる移動手段ではない。
私を役割を終えるべき断罪の舞台へと運ぶ、片道切符の棺のようなものだった。
ドレスの裾を揃え車内に足をかけようとしたその時、背後からの声が私を引き止めた。
「お嬢様」
振り返ればそこにはルーカス先生が立っていた。
春風に柔らかく揺れる、モスグリーンの髪。
いつも通りの落ち着いた佇まい。
けれど、その瞳だけは違っていた。
底知れないほどに妙に静かだった。
「……先生?」
「ご挨拶がまだでしたので」
先生はそう言って、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
周囲では、使用人たちが慌ただしく荷物を運び込んでいた。
入学を目前に控えた公爵令嬢への祝辞、石畳を叩く馬の蹄の音。
その喧騒の中で先生だけが不思議なほど凪いだ空気を纏っていた。
「アカデミーでも、引き続きよろしくお願いします」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
先生は私の反応を楽しむように小さく目を細めた。
「私も同行します。特別講師として」
数秒間、その言葉の意味が理解できなかった。
「……同行、って」
「四属性持ちのお嬢様を管理できる人材が必要だそうです」
さらりと、何でもないことのように告げられる。
「教師陣だけでは不安だと、王宮側にも判断されたのでしょう」
そんなことが、これほど簡単に決まるはずがない。
アカデミーは、国中の貴族子女が集う厳格な場所だ。
教師一人の人事だって、そう軽く決まるものではないはずなのに。
先生はまるで、近所へ散歩に付き添う程度の温度で言ってのけるのだ。
「……どうして」
掠れた声が漏れる。
どうして、そこまで。
私を監視したいのか。それとも───。
そこまで考えた瞬間。
先生がふっと、僅かに視線を細めた。
「お嬢様は」
静かな、けれど拒絶を許さない声。
「放っておくと、どこかへ行ってしまいそうですから」
心臓が跳ねた。
先生は時々、こんなふうに何でもない顔をして私の心の奥底へ土足で触れてくる。
「……私は、子供ではありませんわ」
「ええ」
「迷子にもなりません」
「でしょうね」
あっさりと肯定しながら、先生はさらに一歩だけ距離を詰める。
「ですが、お嬢様は時々」
一段と低くなった声。
「誰にも見つからない場所へ、行こうとなさるでしょう」
息が止まりそうになった。
図星だった。
私はずっと終わる場所を探している。
誰にも迷惑をかけず誰にも止められず、静かに消えられる場所を。
先生はそれを知っている。
知っていて、責めもしないし止めもしない。
ただ、当然みたいな顔をして私の隣へ立とうとする。
「……先生は」
声が、微かに震える。
「どうして、そんなことを言うの」
問いかけると、先生は少しだけ困ったように笑った。
「さて」
どこまでも穏やかな声。
「どうしてでしょうね」
その表情が、その空気が。
どうしようもなく前世の夫と重なった。
疲れ切っていた夜に何も聞かず、ただ隣にいてくれた人。
無理しなくていいと言って私の頭を撫でてくれた人。
先生は違う。
別人だ。
なのに時々、胸が苦しくなるくらいに似ている。
「お嬢様」
再び、名を呼ばれる。
「アカデミーは、それなりに騒がしい場所です」
「……ええ」
「疲れたら、ちゃんと休んでください」
まるで、それが当然の義務であるかのように言うから。
私は返事が出来なくなった。
先生の言葉は、優しい。
けれどその優しさは私を逃がしてはくれない。
そんな私の困惑を強引に断ち切るように、力強い手が、私の手首を掴み上げた。
「ルーカス殿。講師としての職務のみを全うして下さいますか?妹は殿下と婚約している身。あまり馴れ馴れしくしないでいただきたい」
現れたのは見送りに来ていた私の入学と入れ違いに卒業した兄、そして父。
兄は私の手を自らの胸元へと引き寄せた。
「ほらほら、ルーカス君にそんなに無礼を働くでない。…レティ、入学おめでとう」
兄を制しながら感慨深そうな笑顔でそう言う父に礼を告げ、私は馬車に乗り込んだ。
ぐちゃぐちゃに絡み合った感情を仮面の下に押し殺しながら。
───……
馬車が走り出し、車窓から遠ざかる屋敷を見つめる。
耳の奥にこびりついて離れない、ルーカス先生の“共に堕ちる”という囁き。
それが私の心に深く刻み込んでいた。
やがて、アカデミーの巨大な石造りの門が見えてくる。
そこは乙女ゲームの物語が本格的に幕を開ける場所。
そこには光と闇の属性を持つとされる“ヒロイン”が、無垢な顔をして存在しているはずだ。
私は静かにドレスの裾を整え、背筋を伸ばした。
「……レティシア・トムソン・イーデン。参ります」
馬車の扉が開く。
足を踏み出した先にあるのは、処刑台の舞台、
複雑に交錯する感情を抱えながら、私は一歩を踏み出した。
その唇にはかつてゲームの立ち絵で見た傲慢な笑みではなく、覚悟を決めた1人の女性としての微笑が浮かんでいた。
狂ったシナリオの幕は、今上がったばかりだ。




