ifルーカス:発作
夜中静まり返った北の古城に、心臓を抉るような鈍い破砕音が響き渡った。
次の瞬間書架の一角が瞬く間に白く凍り付き、耐えきれなくなった木材が乾いた音を立てて砕け散る。
「……っ、ぁ……!」
冷たい床へ膝をついたのは、レティシアだった。
呼吸は浅く、まるで肺の奥まで凍りついたかのように細く苦しげな吐息を繰り返している。
乱れた白銀の髪の間から覗く紅い瞳は、高熱に浮かされたように虚ろに揺れていた。
制御を失った指先からはどす黒い冷気が濁流となって溢れ出し、無機質な石床を白く、残酷に侵食していく。
発作だった。
ここ数日彼女を苛む前世の夢は、その密度を増していた。
知らないはずの家。
暖かな湯気が立ち昇る食卓。
愛していた誰かの、優しい声。
失ったはずの幸福な記憶が鮮明に浮上するたび、彼女の魔力回路は悲鳴を上げて軋み、壊れかけた器を内側から破壊しようとする。
今のレティシアにとって“過去”とは致死量の毒に他ならなかった。
思い出せば思い出すほど、今の自分との境界が曖昧に溶けていく。
そしてその精神の混濁こそが、彼女の魔力を暴走させる引き金となっていた。
窓硝子へ一気に霜の結晶が広がり、吹雪のような風が室内を吹き荒れる。
暖炉の火さえもその冷気に呑まれ、弱まり始めたその時だった。
「呼吸を合わせてください」
低い、落ち着いた声が頭上から降ってきた。
いつの間に現れたのか。
ルーカスがレティシアの目の前で片膝をついていた。
黒い外套に、黒い手袋。
感情を極限まで削ぎ落としたような瞳。
荒れ狂う冷気の嵐の中でも彼だけは微動だにせず、静止していた。
「無理……ですわ……っ」
掠れた声が漏れる。
直後、空気が爆ぜるような衝撃と共に冷気が膨れ上がった。
書架に並ぶ本が次々と凍り付き、ぱきぱきと不吉な音を立てていく。
だが。
「できます」
返答は即答だった。
慰めるでもなく、過剰に励ますでもない。
ただ、揺るぎない事実を告げるだけの無機質な声音。
ルーカスの指先が、空間を切り裂くように術式を刻む。
青白い光が走り、幾重にも重なった魔法陣が狂い咲く冷気を封じ込めるように展開されていく。
術式と魔力が擦れ合い、鼓膜を刺すような高音が室内を満たした。
「私を見て」
レティシアの胸が激しく上下する。
痛い。
苦しい。
脳内を掻き回す記憶が現実感を剥ぎ取っていく。
夢の中の暖かな景色と今この瞬間の凍える地獄が混ざり合い、彼女の精神を無惨に引き裂こうとしていた。
それでも。
ルーカスの声だけは、不思議なほどはっきりと届く。
「吸って」
レティシアが、浅く、必死に空気を吸い込む。
「吐いて」
震える吐息が、白い煙となって零れ落ちる。
「もう一度」
何度も。
何度も。
機械的なまでに繰り返される誘導。
その間もルーカスは絶えず指を動かし、術式を維持し続けていた。
彼の足元には薄く霜が積もり始めている。
常人であれば、恐怖で距離を取るはずの致命的な冷気の密度だ。
だが、彼は一歩も引かない。
まるで、最初から逃げるという選択肢など持ち合わせていないかのように。
「……っ」
不意に、レティシアの瞳から大粒の涙が零れた。
「思い出せない……」
掠れた呟きが、静寂に消える。
「忘れたく、ないのに……」
その言葉をきっかけに、冷気が再び暴走の兆しを見せる。
窓硝子に深い亀裂が走った。
室温が急激に奪われ、世界が停止しようとする。
だが。
「レティシア」
ルーカスの声が、僅かに強度を増した。
彼はそのまま、黒い手袋越しの指先をレティシアの濡れた頬へと滑らせる。
ひやりとした感触。
けれど、そこには確かな意思があった。
「こちらを見て」
揺れる紅い瞳が、逃げ場のない瞳に捉えられる。
ルーカスの眼差しはどこまでも静かだった。
感情を押し付けず、救済を叫びもしない。
ただそこに在り続ける。
その絶対的な静けさが、崩れかけていたレティシアの意識を現実という地面へ繋ぎ止めていた。
「過去へ引きずられないでください」
淡々とした声。
「今、あなたはここにいる」
その言葉を合図にするかのように。
荒れ狂っていた冷気が、ゆっくりと、凪いでいく。
床を覆っていた霜の侵食が止まり、レティシアの身体から急速に力が抜けていった。
そのまま耐えきれず、彼女はルーカスの肩へと寄り掛かる。
「……終わりました」
低い声。
いつも通りの、感情の希薄な声音だった。
だが、彼の額には珍しく汗が滲んでいる。
これほどの術式維持には、常人ならざる魔力を消耗したはずだ。
「……ごめんなさい」
レティシアの掠れた謝罪が落ちる。
ルーカスは少しの沈黙の後、小さく、重い息を吐いた。
「謝罪は不要です」
「でも……」
「あなたが壊れかけているのは、今さらでしょう」
突き放すような、酷い言葉だった。
だが。
その瞬間だけ、レティシアの強張っていた呼吸がふっと緩んだ。
彼だけは、彼女を腫れ物のように扱わない。
恐ろしい怪物でも、可哀想な悲劇の令嬢でもなく。
ただ欠陥を抱えた一人の“レティシア”として、そこに置いている。
だからこそ。
彼の傍では、少しだけ呼吸を許された気がした。
ルーカスの指が、乱れた銀髪を優しく整える。
ほんの一瞬の、事務的な接触。
それだけで張り詰めていた精神が限界を迎え、レティシアの瞼が重たそうに伏せられた。
遠のく意識の中で、彼女は無意識にルーカスの外套を固く掴んでいた。
「……行かないで」
それはあまりにも幼く、剥き出しの懇願だった。
その瞬間。
ルーカスの瞳が、初めて僅かに揺れた。
けれど、それは瞬きをする間には消えていた。
「ええ」
静かな、けれど逃げ場のない返答。
「どのみち、離れる気はありません」
その言葉を最後に。
レティシアの意識は、底のない深い眠りへと沈んでいった。




