ifルーカス:嫉妬
北方にも、短い春は訪れる。
けれどその春は、王都のように華やかではない。
雪解け水が静かに滴り、凍てついた大地の隙間からようやく小さな草花が顔を覗かせる。
その程度の、ひどく控えめな春だった。
古城の中庭にも、まだ雪は残っている。
灰色の空、冷たい風。
それでも今日だけは、ほんの少し空気が柔らかかった。
レティシアは、珍しく温室跡へ足を運んでいた。
元々は、北方領主が冬でも花を育てるために造らせた場所らしい。
今は半ば崩れ硝子も何枚か割れたままだが、それでも陽光だけは差し込む。
その片隅で、小さな白い花がひっそりと咲いていた。
「……クロッカス」
思わず、レティシアは呟く。
雪の中でも咲く花。
昔、ソフィ様が嬉しそうに話していた。
『冬の終わりに咲くのよ、お姉様!』
まだ幼かった少女の声が、ふと脳裏を過ぎる。
その時だった。
「こんなところにいたんですか」
低い声が聞こえて振り返れば、そこにはルーカスが立っていた。
黒い外套、白い息。
そして片手に、いつもの革鞄。
「……貴方こそ」
「術式の更新です。探しました」
淡々とした口調。
けれど、本当に探していたのだろう。
肩へ薄く雪が積もっている。
レティシアは小さく目を細めた。
───……
ルーカスは周囲を一瞥する。
その視線が、足元のクロッカスへ落ちた。
「春らしいことをしていますね」
「少しくらい、季節を感じても良いでしょう」
「あなたの場合、春を感じると発作を起こしかねないので困ります」
「失礼ね」
レティシアは呆れたように息を吐いた。
だが、否定はできない。
春は、記憶を揺らす。
暖かな日差し、誰かの笑い声。
そんな忘れかけた前世の朧気な断片が、時折ひどく鮮明に蘇る。
それが魔力循環を乱し、発作の引き金になることも少なくなかった。
だからこそ、様子を見るためにルーカスは来たのだろう。
いつものように、何も言わず。
「……そういえば」
ルーカスがふと口を開く。
「今日は機嫌が良さそうですね」
「そうかしら」
「ええ。少なくとも、最近の死人みたいな顔よりはマシです」
「貴方、本当に口が悪いわ」
レティシアは苦笑した。
すると、ルーカスの視線が彼女の手元へ向く。
そこには、小さな押し花の栞があった。
白い花弁を、光魔法で丁寧に保護してある。
レティシアが時折眺めているものだ。
「……それですか」
「ええ。前にソフィ様が作ってくれたの」
「なるほど」
興味なさそうな返事。
だがその直後、空気が少しだけ冷えた。
レティシアは目を瞬く。
「……何ですの?」
「別に」
「今、冷えたわよ」
「元々寒い場所です」
嘘だった。
絶対違う。
レティシアはじっと彼を見る。
ルーカスは視線を逸らした。
珍しい反応に、何となく察してしまう。
「……嫉妬?」
「違います」
間髪入れない否定にレティシアは思わず吹き出した。
「分かりやすいわね」
「心外です」
「貴方、ソフィやエレノアの話をすると機嫌悪くなるでしょう」
「気のせいです」
「気のせいじゃないわ」
ルーカスは無言になる。
その沈黙が、何より雄弁だった。
暖かな陽光が壊れた硝子窓から差し込み、雪解け水の音だけが静かに響いていた。
───……
やがて、ルーカスは低く息を吐く。
「……あの二人は、あなたに“春”を思い出させる」
レティシアが瞬く。
彼は窓の外を見たまま、続けた。
「王都。アカデミー。暖かな場所。あなたが本来いるべきだった世界」
淡々としている。
けれど、その声音だけが妙に静かだった。
「だから嫌なんです」
レティシアはしばらく何も言えなかった。
ルーカスは続ける。
「あなたは時々、ひどく遠くを見る」
白い花を見ている時。
春の日差しを浴びた時。
前世の夢を見た翌朝。
その瞬間だけ、レティシアはここではないどこかへ置いて行かれそうになる。
消えてしまいそうになる。
「……戻りたいと思っているように見えるんですよ」
掠れた声だった。
レティシアは静かに目を伏せる。
戻りたい。
その感情が完全に消えたわけではない。
王都には大切な人たちがいる。
ソフィ、エレノア、そして──フレデリック。
けれど。
「……戻れないわ」
ぽつりと、レティシアは呟く。
「もう、あそこでは息ができないもの」
王都を思い出す。
恐怖、張り詰めた沈黙。
誰もが“私”を恐れていた。
あの場所へ戻れば、きっとまた壊れる。
「ここは寒いけれど、少なくとも、怪物として呼吸はできるわ」
長い沈黙の後、ルーカスの指先がそっと彼女の銀髪へ触れた。
雪みたいに冷たい髪。
けれど彼は、もう躊躇わない。
「……安心しました」
その言葉にレティシアは目を細める。
「何が?」
「あなたが、ここを居場所だと思っているなら」
彼はそこで言葉を切った。
そして、珍しくほんの少しだけ笑う。
「まだ、この城を維持する価値があります」
「……何ですのそれ」
「そのままの意味です」
相変わらず、素直じゃない。
けれど、レティシアは知っている。
この男は決して“行かないで欲しい”とは言わない。
レティシアを閉じ込めようともしない。
ただ、壊れかけた彼女がここで静かに呼吸できるよう、黙って世界を整え続けている。
それがどれほど執着じみているかを、本人だけが理解していないのだ。
「……本当に。不器用ね、貴方」
すると、ルーカスは僅かに眉を寄せた。
「今さらでしょう」
その返答が可笑しくて、レティシアは久しぶりに声を上げて笑った。
壊れた温室の中。
雪解けの光が、静かに二人へ降り注いでいた。




