ifルーカス:白銀の沈黙
深夜だった。
北の古城は、深い雪の底に沈んだように静まり返っている。
窓の外では雪が舞い、風の音だけが遠く飢えた獣のように唸り声を上げていた。
レティシアは書庫の重い扉を、音を立てないよう静かに開ける。
近頃、どうしても眠れなかった。
目を閉じれば、決まって夢を見るのだ。
それは、身に覚えのない前世の記憶。
暖かな陽だまりの家。
湯気の立つ食卓。
無邪気な子供の笑い声。
かつての自分が手に入れていたはずの、ささやかで、けれど絶対的な幸福の断片。
今の自分には決して手に入らないものだと知っているからこそ、目覚めた瞬間にその記憶は鋭い刃となって胸を抉る。
「……起きていましたか」
低い、落ち着いた声が静寂を割った。
暖炉の前。
揺らめく焔に照らされて、ルーカスが本を広げていた。
相変わらずの黒尽くめ。
長い指でページを捲るその姿は、冷徹な美しさを湛えて妙に絵になる。
「……貴方こそ」
「私は元々寝付きが悪い性質ですので」
嘘だ、とレティシアは思った。
彼は最近、自分が夜中に目を覚ます時間を正確に把握している。
そして、必ずここにいるのだ。
まるで偶然を装った、必然として。
「座りますか」
ルーカスが向かいの椅子を引く。
レティシアは一瞬の迷いの後、彼の隣の椅子へ腰を下ろした。
対面ではなく、触れそうなほど近い隣。
その瞬間だけ、ルーカスの指が僅かに止まった。
けれど、彼は何も言わずに本を傍らに置いた。
暖炉の火が爆ぜ、赤い光が静かに二人を縁取る。
「……また、夢を見ました」
ぽつり、とレティシアが溢す。
ルーカスは静かに問い返した。
「どんな夢を」
「……覚えていないわ」
それは嘘だった。
鮮明に覚えている。
忘れられない。だからこそ、誰にも言えない。
「ただ……とても、苦しかったの」
消え入りそうな声で、レティシアは膝の上で指を固く握りしめる。
すると不意に、その手へ別の温度が重なった。
ルーカスだった。
手袋越し。
直接肌が触れ合っているわけではない。
けれど、そこには確かに彼という人間が存在する証の温かさがあった。
「……ルーカス?」
「少し冷えている」
彼は視線を逸らしたまま、淡々と告げる。
「放っておくと、また熱を出しますよ。貴方の身体は脆い」
「だからって……」
「嫌なら離れますか?」
そう問いかけるくせに、絡めた指に力はこもっても離れる気配は微塵もない。
レティシアはしばらく沈黙を守り、やがて。
「……そのままでいいわ」
掠れた声で呟いた。
ルーカスの長い睫毛が、わずかに震える。
窓を叩く雪の音だけが響く書庫。
レティシアは、そっと目を閉じた。
不思議だった。
彼の隣は静かで冷ややかなのに、今の自分にはとても楽だった。
期待されない。
完璧でいなくていい。
壊れていても、醜く喘いでいても。
この人だけは、それを決して咎めないから。
「……ねえ、ルーカス」
「何です」
「貴方、どうしてそんなに優しいの」
沈黙が降りる。
暖炉の火が揺らめき、長い間の後、ルーカスは低く、喉を鳴らすように笑った。
「優しくなどありませんよ」
その声音には、隠しきれない自嘲が混じっていた。
「私はただ──」
彼の指が、わずかに強く絡む。
「貴方が、私以外を必要としなくなればいいと思っているだけです」
レティシアは目を見開いた。
あまりにも静かで、重く、淀みのない独占欲。
それは呪いのようでいて、今の彼女には何よりも甘美な救いに聞こえた。
「……最低ね」
「ええ。今さらでしょう」
その平然とした返答に、レティシアは思わず吹き出してしまった。
本当に小さく、けれど胸の底から湧き上がるような笑み。
その笑い声を聞いた瞬間、ルーカスの瞳が深い満足感を湛えて細められた。
「……そうやって笑うなら」
彼がぽつりと呟く。
「この北の果てに、貴方を閉じ込めた価値もあります」
「閉じ込められた覚えはないわ」
「ありますよ。貴方は案外、強く押されると脆い」
「失礼ね」
「事実です」
また、笑みが溢れる。
夜中にこんな風に笑い合ったのは、いつぶりだろうか。
暖炉の熱が、じわじわと指先から心へと滲んでいく。
レティシアはゆっくりと、隣の身体にその身を預けた。
こつん、と。
彼女の頭が、ルーカスの肩に触れる。
彼の身体が一瞬だけ硬直するのを、レティシアは感じ取った。
けれど、彼は逃げなかった。
むしろ、ほんの僅かに肩の力を抜き彼女を支えるように寄せた。
「……レティシア」
低い声が、上から降ってくる。
「その状態で眠られると、私はしばらく動けませんが」
「なら、動かなければいいでしょう?」
「……本当に、酷い人だ」
そう言いながら、ルーカスはどこか嬉しそうだった。
窓の外では、雪が静かに降り積もり続けている。
世界から切り離された、白く閉ざされた二人だけの夜。
その静寂の中で、レティシアは久しぶりに心からの穏やかさに包まれて目を閉じた。




