表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/111

ifルーカス:白銀の沈黙

深夜だった。

北の古城は、深い雪の底に沈んだように静まり返っている。

窓の外では雪が舞い、風の音だけが遠く飢えた獣のように唸り声を上げていた。


レティシアは書庫の重い扉を、音を立てないよう静かに開ける。

近頃、どうしても眠れなかった。

目を閉じれば、決まって夢を見るのだ。


それは、身に覚えのない前世の記憶。

暖かな陽だまりの家。

湯気の立つ食卓。

無邪気な子供の笑い声。

かつての自分が手に入れていたはずの、ささやかで、けれど絶対的な幸福の断片。

今の自分には決して手に入らないものだと知っているからこそ、目覚めた瞬間にその記憶は鋭い刃となって胸を抉る。


「……起きていましたか」


低い、落ち着いた声が静寂を割った。

暖炉の前。

揺らめく焔に照らされて、ルーカスが本を広げていた。

相変わらずの黒尽くめ。

長い指でページを捲るその姿は、冷徹な美しさを湛えて妙に絵になる。


「……貴方こそ」

「私は元々寝付きが悪い性質ですので」


嘘だ、とレティシアは思った。

彼は最近、自分が夜中に目を覚ます時間を正確に把握している。

そして、必ずここにいるのだ。

まるで偶然を装った、必然として。


「座りますか」


ルーカスが向かいの椅子を引く。

レティシアは一瞬の迷いの後、彼の隣の椅子へ腰を下ろした。

対面ではなく、触れそうなほど近い隣。

その瞬間だけ、ルーカスの指が僅かに止まった。

けれど、彼は何も言わずに本を傍らに置いた。


暖炉の火が爆ぜ、赤い光が静かに二人を縁取る。


「……また、夢を見ました」

ぽつり、とレティシアが溢す。

ルーカスは静かに問い返した。


「どんな夢を」

「……覚えていないわ」


それは嘘だった。

鮮明に覚えている。

忘れられない。だからこそ、誰にも言えない。

「ただ……とても、苦しかったの」


消え入りそうな声で、レティシアは膝の上で指を固く握りしめる。

すると不意に、その手へ別の温度が重なった。


ルーカスだった。

手袋越し。

直接肌が触れ合っているわけではない。

けれど、そこには確かに彼という人間が存在する証の温かさがあった。


「……ルーカス?」

「少し冷えている」

彼は視線を逸らしたまま、淡々と告げる。

「放っておくと、また熱を出しますよ。貴方の身体は脆い」

「だからって……」

「嫌なら離れますか?」


そう問いかけるくせに、絡めた指に力はこもっても離れる気配は微塵もない。

レティシアはしばらく沈黙を守り、やがて。

「……そのままでいいわ」

掠れた声で呟いた。


ルーカスの長い睫毛が、わずかに震える。

窓を叩く雪の音だけが響く書庫。

レティシアは、そっと目を閉じた。


不思議だった。

彼の隣は静かで冷ややかなのに、今の自分にはとても楽だった。

期待されない。

完璧でいなくていい。

壊れていても、醜く喘いでいても。

この人だけは、それを決して咎めないから。


「……ねえ、ルーカス」

「何です」

「貴方、どうしてそんなに優しいの」


沈黙が降りる。

暖炉の火が揺らめき、長い間の後、ルーカスは低く、喉を鳴らすように笑った。

「優しくなどありませんよ」

その声音には、隠しきれない自嘲が混じっていた。


「私はただ──」

彼の指が、わずかに強く絡む。

「貴方が、私以外を必要としなくなればいいと思っているだけです」


レティシアは目を見開いた。

あまりにも静かで、重く、淀みのない独占欲。

それは呪いのようでいて、今の彼女には何よりも甘美な救いに聞こえた。


「……最低ね」

「ええ。今さらでしょう」


その平然とした返答に、レティシアは思わず吹き出してしまった。

本当に小さく、けれど胸の底から湧き上がるような笑み。

その笑い声を聞いた瞬間、ルーカスの瞳が深い満足感を湛えて細められた。


「……そうやって笑うなら」

彼がぽつりと呟く。

「この北の果てに、貴方を閉じ込めた価値もあります」

「閉じ込められた覚えはないわ」

「ありますよ。貴方は案外、強く押されると脆い」

「失礼ね」

「事実です」


また、笑みが溢れる。

夜中にこんな風に笑い合ったのは、いつぶりだろうか。

暖炉の熱が、じわじわと指先から心へと滲んでいく。

レティシアはゆっくりと、隣の身体にその身を預けた。


こつん、と。

彼女の頭が、ルーカスの肩に触れる。

彼の身体が一瞬だけ硬直するのを、レティシアは感じ取った。

けれど、彼は逃げなかった。

むしろ、ほんの僅かに肩の力を抜き彼女を支えるように寄せた。


「……レティシア」

低い声が、上から降ってくる。

「その状態で眠られると、私はしばらく動けませんが」

「なら、動かなければいいでしょう?」

「……本当に、酷い人だ」


そう言いながら、ルーカスはどこか嬉しそうだった。


窓の外では、雪が静かに降り積もり続けている。

世界から切り離された、白く閉ざされた二人だけの夜。

その静寂の中で、レティシアは久しぶりに心からの穏やかさに包まれて目を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ