エピローグ:冬(sideルーカス)
北方の冬は嫌いではない。
静かだからだ。
余計な喧騒も無意味な感情も、雪はすべて覆い隠していく。
白く冷たく、何もかもを平等に沈黙させる。
吹雪の夜。
古城へ続く雪道を、一人歩く。
黒い外套には雪が積もり、革靴が薄く凍った地面を静かに踏み締めた。
片手には古びた革鞄。
中身はいつも同じだ。
魔力抑制薬。
制御術式の触媒。
そして、レティシア専用に調整された補助札。
五年。
もう五年になる。
それでも未だに、彼女の魔力は完全には安定しない。
……いや正確には、安定させる必要がないのだ。
ここは北方。
寒冷地で、人も少ない。
感情の熱量も、王都ほど濃くない。
だからこそ、彼女は壊れずに済んでいる。
世界から隔離されたことでようやく生き延びられた。
皮肉な話だった。
古城へ近づくほど、冷気が濃くなる。
空気が白い。
息を吸うたび、肺の奥まで凍りつくような感覚があった。
だが、私は慣れている。
五年以上前からずっと、この冷気を浴び続けてきたのだから。
回廊へ入る。
石壁は霜に覆われ、窓辺には氷花が咲いていた。
まるで城そのものが、彼女に侵食されているようだった。
───綺麗だな。
ふと、そんなことを思う。
昔なら、絶対に認めなかった感情だ。
回廊の奥に、人影が見えた。
白銀の髪に、黒いドレス。
月光に照らされ、レティシアが静かに立っている。
昔より、随分穏やかな顔をするようになった。
あれほど壊れかけていたのに。
あれほど、世界を拒絶していたのに。
そして彼女の三歩後ろには、フレデリックがいる。
その距離は、十年経っても変わらない。
近づけば傷つけ、触れれば壊す。
だから、決してそれ以上は近づかない。
それでも。
二人は同じ歩幅で歩いていた。
「今日は随分冷えるね」
フレデリックが笑う。
レティシアは呆れたように振り返った。
「北方でそれを仰るの?」
「君がいる日は特に寒い」
「口説いていますの?」
「今さら?」
小さく笑い合う声。
静かな空気。
その光景を見た瞬間、胸の奥が鈍く軋んだ。
……羨ましい。
認めたくはないが、そう思った。
自分では、彼女をあんな風には笑わせられなかった。
私に与えられるのは、安定と、制御と、理解。
あるいは、共に沈むための静かな絶望だけだ。
だがフレデリックは違う。
愚かなほど真っ直ぐで、救いようがないほど執着的で。
それでも、彼は彼女を生へ繋ぎ止めた。
王位まで捨てて。
───本当に、馬鹿な男だ。
だが嫌いではない。
むしろ少し、尊敬しているのかもしれなかった。
その時「……ルーカス?」と、レティシアの声が響いた。
視線が合った。
紅い瞳。
昔のような、壊れそうな色はもう薄い。
長い冬を越えた人間の目だった。
フレデリックもこちらを見る。
昔なら、もっと刺々しい空気になっていただろう。
互いに牽制し、敵意を隠さなかったはずだ。
だが今は違う。
五年という歳月は、激情を削り落としてしまう。
残るのは、静かな理解だけだった。
「……術式の更新ですか」
フレデリックが問う。
「ええ」
短く返し、革鞄を持ち上げる。
「薬も置いていきます。最近また冷気密度が上がっている」
「……そう」
レティシアが苦笑した。
「本当に貴方はしつこいわね」
「教師ですから」
「嘘つき」
小さく笑う彼女を見るたび、思う。
ああ、もう自分は必要ないのだと。
かつては違った。
彼女が崩壊しかけるたび、最後に手を差し伸べるのはいつも自分だった。
夜明け前の発作、暴走、吐血、凍傷。眠れない夜と、壊れかけた精神。
全部知っている。
誰より近くで見てきた。
だから一時は、本気で思っていた。
いずれ彼女が完全に堕ちるなら、その時は自分も共に沈もうと。
光ではなく、闇として。
だが、レティシアは堕ちなかった。
壊れながらも、誰かと生きることを選んだ。
その事実が、どうしようもなく苦しくて。
同時に、どうしようもなく安心する。
「……では、私はこれで」
踵を返す。
長居する理由はない。
この城には、既に完成した均衡がある。
自分はその外側だ。
その背へ、レティシアの声が届いた。
「ルーカス」
足を止める。
「……ありがとうございます」
雪が降っていた。
静かに、どこまでも静かに。
目を閉じ、小さく息を吐く。
「礼を言われることではありませんよ」
それは本心だった。
結局、彼女を救えたわけではない。
ただ壊れないよう、繋ぎ止め続けていただけだ。
けれど。
もし少しでも、彼女が今ここで穏やかに笑える理由の一部になれているのなら。
……それで十分だった。
振り返らないまま、吹雪の中へ歩き出す。
背後では、二人分の足音が重なっている。
白銀の箱庭。
閉ざされた冬。
その静かな世界から離れながら、ふと思う。
───ああ。
結局最後まで。
私はあの人を愛していたのだと。
ルーカスが不遇なので、ifルーカスの話を数話書きます。
もし良かったら読んでいただけると嬉しいです。
二章スタート時から少し経ち、レティシアの状態も少し安定しているという設定です。




