3.ミハイル殿下との会話
「オゴロロロロロオ、アガッ、グウォ、ベッ、ングッ!ブホッ、ブホッ!」
広間から少し離れたお手洗いで、溺れかけの家畜のような声を上げているのは私だ。
お姉様に押さえつけられ、歯ブラシを口に突っ込まれて強制的に歯磨きさせられ、更に消臭タブレットを飲まされているのだから淑女らしからぬ声が漏れ出るのは容赦してもらいたい。
なお、分厚くて大きな前掛けをさせられているのでドレスが濡れたり汚れたりすることはない。
さすがお姉様。用意がいいというか、私をよく分かってらっしゃるというか。
「まったく貴女という娘は……これからミハイル殿下にご挨拶しようというときにあんな匂いの強いものを食べる人がありますか!普通、あの場では候補の令嬢はハーブティーや一口菓子くらいしか口にしないのは常識でしょうが!」
殿下の周囲は高位の見目麗しい令嬢や令息で固められているので、そんな匂いが気になる程殿下の近くに寄れるとは思えませんが。
そう反論しないのはお姉様のお説教に納得したからではなく、侍女に化粧直しをさせられているので喋れないからというだけである。
やがて身支度を整えなおした私を再度引きずるようにして広間に連れ戻したお姉様は
「今度こそ、殿下にご挨拶して笑顔のひとつもいただいてくるのよ!言いつけを守らなかったら、後でお母様とお婆様からもきっちり叱っていただきますからね!」
と言い残し、自分の社交の場へと戻っていった……仕方ない。言い訳できる程度には頑張ってミハイル殿下のお近くに寄るとしますか。
とはいえ、もうダンスも始まっており、当然ミハイル殿下も踊っている最中だ。ダンスのお相手はアリサ様か。
まずは集団の隅で軽く休憩中といった風情の親友のライサとオリガの元へ向かう。
お互い貴族令嬢らしく挨拶を交わした後は、声を潜めて周囲に聞かれないよう話をする。
「で、ライサ、オリガ。どう?上手い事『ノルマ』は果たしたの?」
「おかげさまでね。殿下にはお言葉をいただいて、ご挨拶程度だけど二言三言お話しできたわ」
「私も同様ね。あと、ヴァシリーとも楽しく話せたわ」
ヴァシリーというのはオリガの婚約者候補殿だ。そのヴァシリー殿は今は仲のいい若い男性のみの集団で歓談しているのが見える。
「……で、エミリヤ。貴女なにやらかしたのよ?」
私とお姉様の行動はさすがに目立ったらしくライサに説明を求められたので先程までのなんやかんやを話す。
「私に1千リブルって……貴女ねえ……」
「だって婚約者候補が居るオリガの名前を出すのもまずいかと思って」
「どうせなら自分に賭けなさいよ!……って貴女も王太子妃になる気ないんですものね」
ライサが『貴女も』と言ったのは、彼女も王太子妃になる気がないためだ。そもそも既に画家として活躍している彼女は結婚自体を焦っていない。ご家族はそんな彼女に頭を痛めているようだが。
「そりゃヴェロニカ様は怒りますわね。怒っても無駄でしょうけど」
ライサもオリガも我が家の女性陣のロマンチストぶりと私のやる気の無さを知っているので話が早い。
「で、今から殿下の視界に入って形だけでもお言葉をいただこうってわけ?ちょっとこの状況じゃ難しいわよ?」
「まあ、殿下があと何曲か踊って休憩に入ったら、その近くに寄るだけ寄ってみようかな……と……?」
アリサ様と踊り終えたミハイル殿下がなんか近づいてくる。と、いうか殿下の視線が明らかに私を捉えたまま真っすぐこちらに歩み寄ってくる。そして適当な距離まで近づくとその口を開いた。
「イワノフ子爵家のエミリヤ嬢かな?」
「はい、エミリヤでございます。ミハイル殿下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」
「堅苦しい挨拶はいいよ。先程、あちらのテーブルの方で君が何か言ったら歓声が上がっていたけど何を言っていたのかな?」
あ、やっぱり目立ち過ぎましたね。
「……『某ご令嬢に1千リブルを』と」
さすがに『誰が王太子妃になるかの賭けに乗ってました』と言うのもまずいかと思い、自分の台詞だけを答えたのだが、それだけでミハイル殿下には何が起きていたのか察していただけたようだ。
「あっははははは!それは皆びっくりしただろうね。あと、そこで何か食べていたようだったけど、どの料理を選んでくれたのかな?口には合ったかい?」
「……カレースープをいただきました。異国のスパイスが、あれほど我領特産のビーツと合うとは思いませんでしたわ」
「これはこれは、堪能してもらえたようで何よりだ。それと」
更に殿下が口を開きかけたところで側近が焦ったように殿下に何事か囁き、殿下がそれに答える。
「ああ、うん、もう少し……ああ、わかった、わかった」
そしてもう一度ミハイル殿下は私に向き直り
「いや、おもしろい話が聞けた。では、引き続き楽しんでいってくれたまえ」
そう言うとミハイル殿下は私たちから離れていき、今度はイヴァンナ様と踊りはじめた。
なるほど、アリス様と踊っておいてイヴァンナ様と踊っていなかったものだから側近が焦ってたんでしょうね。
最終的に誰を選ぶにせよ各派閥のメンツが立つように振る舞わなければならないのだろう。
殿下は殿下でこなすべきノルマがあるようで大変だ。
その後も舞踏会は続いたのだが、最後にちょっとしたハプニングがあった。
何と、ミハイル殿下が誰にも杯を渡さなかった……つまり誰も選ばれなかったのだ。
まあ、過去にもそういったことはあって、その場合は再度舞踏会が開かれて改めて妃が選定されるというのが慣習なのだが。
国費の無駄遣いじゃない?これって?
◇◆◇
帰りの馬車の中。
「見てたわよ!よくやったわ!ミハイル殿下の方から貴女にお声を掛けてくださってたじゃないの!もしかしたら次回の舞踏会に繋がるんじゃない!?どんなお話しをしたの!?」
と、ヴェロニカお姉様に聞かれたので正直に答えた。
「賭博場での発言とカレースープの食感です」
「どうしてよりによってその話なのよ!?」
「だってミハイル殿下がその話題を振ってきたんですから仕方ないじゃないですか。おかげでヴェロニカお姉様の言い付けも果たせましたし。賭博場での台詞には殿下が爆笑してましたよ」
「あら良かったじゃない……って良くない!私は『笑顔のひとつもいただいてきなさい』と言ったのであって『笑いを取ってこい』と言ったんじゃないわよ!」
とりあえず義務を果たして気の抜けた私と、頭を抱えたお姉様を乗せて馬車は屋敷に戻っていった。