第9話 「境界線」
1
本当に長い1日だった。
朝倉に送ってもらい自宅に帰り着いた時、空には月が昇っていた。
警察での事情聴取が終わったのは夕方近く。
病院は混んでいて、受け取った診断書を警察に届けた後には、疲れ切って朝倉が運転する車の中でウトウトしてしまった。
朝倉には、また心配をかけてしまったかもしれない。
でも、朝倉がずっと付き添っていてくれたことが心強かった。
ひとりになって部屋を眺める。
広くはない部屋だから、余計に目につく。
優斗が残していったものが、どこに目を向けてもそこにある。
洗面台の歯ブラシ。
冷蔵庫のジュース。
スマホの充電ケーブル……
ここは、私の部屋なのに私だけの場所ではなくなっている。
もう、この部屋にいたくないと思った。
「引っ越そうかな……」
吐息のような独り言をつぶやいた。
2
朝倉に“なんでも、相談してください”と言われて、嬉しいと思った。
でも、真に受けてはいけないという気持ちもあった。
ひったくりや職場での騒動、そして今度は警察沙汰だ。
気の毒に思って、社交辞令のつもりだったかもしれない。
今日の“撤回しません”という言葉を聞くまでは。
思い切って、勇気を出して、メッセージを送る。
〈少し、相談してもいいですか?〉
すぐに返信が来る。
〈もちろん〉
〈電話できますか?〉
ひよりが返信する前に、着信音が鳴る。
画面には“朝倉 恒一”
「朝倉です」
「今、大丈夫ですか?」
普段と変わらない声。
「あ…大丈夫です」
「どうしました?なんかあった?」
二言目の“なんかあった?”には心配をのぞかせるような口調だった。
心配ばかりかけているのかもしれない。
ひよりは慌てて、否定する。
「いえ!なにも…ただ、ちょっとこの部屋は落ち着かないなって」
「だから、引っ越そうと思うんです。」
「そのことを、あなたに相談したくて」
「時期としては、悪くないです。寒くもないし、暑すぎない」
「落ち着かない場所に無理して戻ることもない」
「防犯面なら、見ます」
仕事の相談でもしているように真面目に答える朝倉に、ククっと小さく笑うひより。
「え」
場違いな発言でもしたのかと、困ったような反応だ。
「ごめんなさい」
ひよりは笑いをかみ殺して謝る。
「違うんです。あなたと一緒に次の家を探したいんです」
「次のお休みは予定がありますか?」
「予定はありません」
「行きましょう。一緒に」
3
百貨店での施設警備は24時間の常駐警備だ。
以前の身辺警備よりも神経をすり減らすことはないと思っていた。
仕事で神経を削ることは減ったが、ひよりの身辺ばかりが気になっていた。
それも、すこしづつ落ち着き始めている。
今日は非番だ。
朝倉は、ひよりの住むマンションへ車を走らせていた。
ハンドルを握ると、先週のことが思い出される。
彼女の手首の痕…
辛抱強く、懸命に生きる彼女を守ってあげたいと自覚したのが、いつからだったのかは覚えていない。
気づいた時には、そう思っていた。
だが、彼女には付き合っている男がいた。
だから慎重になった。
慎重になっているつもりだった。
なのに、胸の奥が、ずっと落ち着かない日が続いていた。
瀬尾優斗という男は、守るという言葉を乱用しそうな男だと思った。
行動を制限する。
スマホの履歴を確認する。
誰と会ったか問い詰める。
それを“心配”と呼ぶ。
それは違う。
守っていない。
守るというのは、相手の行き先を奪うことじゃない。
相手が安心して歩けるように、危ないものを遠ざけることだ。
手を引くことと、手首を掴むこととは違う。
あの男は、彼女を守りたかったんじゃない。
逃げられたくなかっただけだ。
だから、自分は間違えたくなかった。
彼女が自分自身で選んで決定する前に、こちらから奪わない。
彼女が助けを求めたときに、届く場所にいる。
それが今、自分にできるぎりぎりの誠実さだった。
それでも、会えると思ったとき、鼓動が早くなった。
自分でも呆れるくらい、会いたかった。
彼女の住むマンションの外観が見えてきた。
息の詰まる嫌な思い出のある部屋から、早く連れ出してやりたい。
マンションの階段口の前で車を停める。
パーキングボタンを押す前に、朝倉は1度だけ息を吐いた。
4
約束の日は、薄い青のワンピースを選んだ。
窓から下を見下ろしていると、黒いSUVがマンションの駐車場に入ってきたのが見えた。
ひよりは玄関に向かい、春らしいサンダルを履いてドアを閉める。
事件から、1週間が経った。
その後、警察からの電話で優斗の処遇を知らされた。
優斗は、概ね認めているらしい。
すぐに戻ってこられる状況ではないとのこと。
それだけで、ひよりはようやく少し息ができた。
インフォメーションという百貨店の顔ともいえる職場で、突然優斗が現れたりはしないだろうかと不安になることはある。
でも、そんなことを怖がっていては、何もできないと思えるようになってきた。
そして、今から朝倉と共に新しい住まいの計画を立てる。
前を向いて、1歩踏み出せる自分を褒めたいと思った。
階段を下りていくと、SUVの窓が開いている。
朝倉がこちらを見ているのに、黙っているので不安になった。
「変ですか?」
ワンピースの襟元を少し摘まんで、尋ねる。
「いえ…よく似合ってます」
一拍遅れて、返事が返ってきた。
朝倉が、気を取り直すように視線を前に戻した。
ひよりは助手席に座るとシートベルトを締める。
「先に軽く何か食べませんか?」
「物件を見る前に」
その穏やかな提案に、ひよりは少し笑って頷いた。
5月の空は高く、今日も快晴だ。
5
朝倉が選んだのは、大通り沿いにある小さなカフェだった。
休日の昼前で、店内はほどよく混んでいる。
窓際の席に案内されると、ひよりは少しだけ肩の力を抜いた。
誰かと向かい合って座る。
流れる時間は遅く感じられた。
優斗とは、こんなふうに外でゆっくり話したことがあっただろうか。
食事はいつも、彼の空腹を満たすためのものだった。
話すというより、機嫌を損ねないように相槌を打つ時間だった。
「何か食べられそうですか」
朝倉に聞かれて、ひよりはメニューを見た。
「……サンドイッチなら」
「じゃあ、俺もそれにします」
「朝倉さんは、食べたいもの選んでください」
「食べたいですよ。サンドイッチ」
真面目な顔で言うので、ひよりは少し笑ってしまった。
「本当ですか?」
「半分くらい」
「半分なんですね」
「残り半分は、あなたが食べやすそうだったから」
さらっと言われて、ひよりは目を伏せた。
そういうところだ、と思う。
何かを押しつけるわけではない。
でも、こちらをちゃんと見ている。
注文を終えると、ひよりはスマホを取り出した。
「いくつか、気になってる物件を見つけたんです」
「見ても?」
「はい」
テーブルの上で、スマホを朝倉の方へ向ける。
朝倉は身を乗り出しすぎない距離で、画面を覗き込んだ。
「ここは……職場に近いんです。駅からも近いし」
「オートロックですね」
「はい。でも家賃が高めで」
朝倉は画面をスクロールしながら、間取りではなく地図を開いた。
「夜の道、ちょっと細いですね」
「そこを見るんですね」
「見ます。癖です」
朝倉は真剣な顔で地図を拡大する。
「大通りから一本入ってますね。帰宅時間が遅いなら、少し気になります」
「じゃあ、こっちは?」
ひよりが次の物件を出す。
「ここは駅から少し歩くんですけど、家賃が今より安くて」
「管理会社が大手ですね。入口も道路に面してる。コンビニも近い」
「コンビニが近いと安心ですか?」
「明るいし、人の出入りがあります。
ただ、深夜に騒がしくなる場所かどうかは見た方がいい」
「朝倉さん、すごい」
ひよりが素直に言うと、朝倉は少しだけ目を伏せた。
「仕事柄です」
「部屋選び、向いてますね」
「初めて言われました」
「じゃあ、これから副業できますね。防犯目線の物件相談」
「……需要ありますかね」
「私にはあります」
言ってから、ひよりは自分で少し照れた。
朝倉も、何か言いかけてやめた。
サンドイッチが運ばれてくる。
白い皿の上に、三角に切られたパン。
レタスとハムと卵。
なんでもない昼食なのに、ひよりには少し特別に見えた。
食べながら、また物件を見る。
三つ目の物件を開いたとき、ひよりの指が止まった。
「ここ……」
「どうしました?」
「朝倉さんの家、この辺りじゃなかったですか?」
朝倉の手が、一瞬だけ止まる。
「……そうですね」
「近いですね」
「……近いです」
朝倉は妙にまっすぐ画面を見ている。
ひよりはその横顔を見て、少し首を傾げた。
「今、困りました?」
朝倉は沈黙した。
「……困りました」
「どうして?」
朝倉は、コーヒーカップに指をかけたまま、ゆっくり答える。
「喜びそうになったので」
ひよりの胸が、音を立てた気がした。
冗談にしてしまえばよかった。
「何それ」と笑えばよかった。
でも、朝倉の声があまりに正直だったから、笑えなかった。
「……喜んで、くれるんですか」
聞いてしまった。
朝倉は少しだけ困った顔をする。
それから、諦めたように言った。
「はい」
ひよりは慌てて、スマホの画面に視線を戻した。
文字がぼやける。
家賃も間取りも、急に頭に入ってこなくなった。
「ここ、候補に入れてもいいですか」
「もちろん」
「防犯面は?」
朝倉は画面を見て、いつもの調子に戻ろうとしたようだった。
「悪くないです。駅からの道も明るい。入口も見通しがいい」
「ただ、近いから勧めてるわけじゃないです」
「分かってます」
ひよりは小さく笑った。
「でも、近いのは……少し、安心します」
朝倉の目が、また少しだけ揺れた。
その揺れを見るたびに、ひよりは思う。
この人は、自分の気持ちを簡単に押しつけない。
でも、隠しきれてもいない。
それが、嬉しかった。
6
カフェを出ると、午後の光が少し傾き始めていた。
五月の風は柔らかい。
さっきまで物件の話をしていただけなのに、ひよりの心は不思議なくらい軽くなっている。
「今日、ありがとうございました」
歩きながら、ひよりが言った。
「まだ決まってませんよ」
「でも、前に進んだ気がします」
朝倉は少しだけ頷く。
「それなら、よかった」
大通りの信号で立ち止まる。
隣に朝倉がいる。
それだけなのに、ひよりは周囲の音が遠く感じた。
車の音。
歩行者の話し声。
信号機の電子音。
全部があるのに、朝倉の気配だけが妙に近い。
「……今日」
朝倉が先に口を開いた。
「はい」
「会えてよかったです」
ひよりは、信号を見たまま固まった。
「物件の相談ができたから?」
そう聞くと、朝倉は少し間を置いた。
「それもあります」
「他にも?」
青に変わった信号を、周りの人が渡り始める。
けれど、ひよりはまだ動けなかった。
朝倉は、ひよりの横で静かに言った。
「顔が見たかった」
風が、一瞬止まった気がした。
ひよりが顔を上げると、朝倉は少しだけ気まずそうに前を見ている。
「……すみません。今のは、忘れてください」
「忘れません」
即答してしまった。
自分でも驚くくらい、早かった。
朝倉がこちらを見る。
「……困ります」
「私も困ってます」
言ってから、ひよりは笑ってしまった。
朝倉も、ほんの少しだけ笑う。
ふたりとも困っている。
それなのに、嫌じゃない。
信号が点滅し始めて、朝倉が言った。
「渡りましょう」
「はい」
歩き出したとき、朝倉の手が少しだけひよりの近くに来た。
触れない。
でも、何かあればすぐ支えられる距離。
ひよりはそれに気づいて、胸がまた温かくなる。
守るというのは、こういうことなのかもしれない。
前を塞がない。
手首を掴まない。
ただ、転ばないように、届く場所にいてくれる。
ひよりは、横にいる朝倉を見ないようにした。
見たら、また何か言ってしまいそうだった。
駐車場に戻る前に、朝倉がふと立ち止まった。
「少し、遠回りしてもいいですか」
「え?」
「この辺り、候補の物件に近いので。夜道を見ておきたい」
やっぱり仕事の顔だ。
ひよりは笑った。
「はい。お願いします」
夕方の住宅街を、ふたりで少し歩いた。
街灯の位置。
人通り。
コンビニまでの距離。
建物の入口の明るさ。
朝倉は真面目に見ている。
ひよりも横で頷きながら歩く。
それはきっと、デートと呼ぶには甘さが足りない。
でも、ひよりには今までで一番、恋に近い時間だった。
7
帰り道、車内は静かだった。
けれど、最初に送ってもらった時の静けさとは違う。
あの時は、怖さと疲れで言葉が出なかった。
今は、言葉がなくても落ち着いていられる。
マンションの前に着くと、ひよりはシートベルトを外した。
でも、すぐにドアを開けられなかった。
「……朝倉さん」
「はい」
「今日、とても楽しかったです」
朝倉が、ゆっくりこちらを見る。
「引っ越しの相談なのに?」
「はい。変ですよね」
「変じゃないです」
朝倉は少しだけ目を細めた。
「俺も、楽しかった」
ひよりは息を止めた。
“俺も”。
その二文字だけで、今日の一日が急に色を持つ。
「……じゃあ、また相談してもいいですか」
「もちろん」
「物件、もう少し見たいので」
「はい」
「あと……」
ひよりは言いかけて、やめた。
朝倉は待つ。
急かさない。
聞き出そうともしない。
その沈黙に甘えて、ひよりは小さく言った。
「また、会いたいです」
朝倉の表情が、一瞬だけ止まった。
それから、ゆっくり息を吐く。
「……俺もです」
短い返事。
でも十分だった。
ひよりは車を降りた。
階段を上り、部屋に入る。
鍵を閉める。
カーテンを閉める。
その一つ一つが、もう“閉じ込める”動作ではなくなっていた。
自分を守るための動作だった。
スマホを手に取る。
〈鍵、かけました〉
〈カーテンも閉めました〉
送信すると、すぐに既読がついた。
〈よくできました〉
ひよりは思わず笑った。
〈子ども扱いですか?〉
少し間があって、返信。
〈大事に扱ってます〉
ひよりはスマホを胸に押し当てた。
どうしよう。
嬉しい。
嬉しくて、少し怖い。
ベッドに座る。
部屋はまだ、優斗の痕跡が残っている。
でも、以前ほど息苦しくない。
その夜、ひよりはなかなか眠れなかった。
怖いからではない。
胸の奥が、ずっと温かくて落ち着かなかったからだ。
第9話おわり




