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ひより日和  作者: mamio
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9/18

第9話 「境界線」

1


本当に長い1日だった。


朝倉に送ってもらい自宅に帰り着いた時、空には月が昇っていた。


警察での事情聴取が終わったのは夕方近く。

病院は混んでいて、受け取った診断書を警察に届けた後には、疲れ切って朝倉が運転する車の中でウトウトしてしまった。

朝倉には、また心配をかけてしまったかもしれない。

でも、朝倉がずっと付き添っていてくれたことが心強かった。


ひとりになって部屋を眺める。

広くはない部屋だから、余計に目につく。

優斗が残していったものが、どこに目を向けてもそこにある。


洗面台の歯ブラシ。

冷蔵庫のジュース。

スマホの充電ケーブル……


ここは、私の部屋なのに私だけの場所ではなくなっている。

もう、この部屋にいたくないと思った。


「引っ越そうかな……」


吐息のような独り言をつぶやいた。


2


朝倉に“なんでも、相談してください”と言われて、嬉しいと思った。

でも、真に受けてはいけないという気持ちもあった。

ひったくりや職場での騒動、そして今度は警察沙汰だ。

気の毒に思って、社交辞令のつもりだったかもしれない。


今日の“撤回しません”という言葉を聞くまでは。


思い切って、勇気を出して、メッセージを送る。


〈少し、相談してもいいですか?〉


すぐに返信が来る。


〈もちろん〉

〈電話できますか?〉


ひよりが返信する前に、着信音が鳴る。

画面には“朝倉 恒一”


「朝倉です」

「今、大丈夫ですか?」


普段と変わらない声。


「あ…大丈夫です」


「どうしました?なんかあった?」


二言目の“なんかあった?”には心配をのぞかせるような口調だった。

心配ばかりかけているのかもしれない。

ひよりは慌てて、否定する。


「いえ!なにも…ただ、ちょっとこの部屋は落ち着かないなって」

「だから、引っ越そうと思うんです。」

「そのことを、あなたに相談したくて」


「時期としては、悪くないです。寒くもないし、暑すぎない」

「落ち着かない場所に無理して戻ることもない」

「防犯面なら、見ます」


仕事の相談でもしているように真面目に答える朝倉に、ククっと小さく笑うひより。


「え」


場違いな発言でもしたのかと、困ったような反応だ。


「ごめんなさい」


ひよりは笑いをかみ殺して謝る。


「違うんです。あなたと一緒に次の家を探したいんです」

「次のお休みは予定がありますか?」


「予定はありません」

「行きましょう。一緒に」


3


百貨店での施設警備は24時間の常駐警備だ。

以前の身辺警備よりも神経をすり減らすことはないと思っていた。

仕事で神経を削ることは減ったが、ひよりの身辺ばかりが気になっていた。

それも、すこしづつ落ち着き始めている。


今日は非番だ。

朝倉は、ひよりの住むマンションへ車を走らせていた。


ハンドルを握ると、先週のことが思い出される。

彼女の手首の痕…


辛抱強く、懸命に生きる彼女を守ってあげたいと自覚したのが、いつからだったのかは覚えていない。

気づいた時には、そう思っていた。


だが、彼女には付き合っている男がいた。

だから慎重になった。

慎重になっているつもりだった。


なのに、胸の奥が、ずっと落ち着かない日が続いていた。


瀬尾優斗という男は、守るという言葉を乱用しそうな男だと思った。

行動を制限する。

スマホの履歴を確認する。

誰と会ったか問い詰める。


それを“心配”と呼ぶ。


それは違う。

守っていない。


守るというのは、相手の行き先を奪うことじゃない。

相手が安心して歩けるように、危ないものを遠ざけることだ。


手を引くことと、手首を掴むこととは違う。


あの男は、彼女を守りたかったんじゃない。

逃げられたくなかっただけだ。


だから、自分は間違えたくなかった。


彼女が自分自身で選んで決定する前に、こちらから奪わない。

彼女が助けを求めたときに、届く場所にいる。


それが今、自分にできるぎりぎりの誠実さだった。


それでも、会えると思ったとき、鼓動が早くなった。

自分でも呆れるくらい、会いたかった。


彼女の住むマンションの外観が見えてきた。


息の詰まる嫌な思い出のある部屋から、早く連れ出してやりたい。


マンションの階段口の前で車を停める。

パーキングボタンを押す前に、朝倉は1度だけ息を吐いた。


4


約束の日は、薄い青のワンピースを選んだ。


窓から下を見下ろしていると、黒いSUVがマンションの駐車場に入ってきたのが見えた。

ひよりは玄関に向かい、春らしいサンダルを履いてドアを閉める。



事件から、1週間が経った。

その後、警察からの電話で優斗の処遇を知らされた。

優斗は、概ね認めているらしい。

すぐに戻ってこられる状況ではないとのこと。

それだけで、ひよりはようやく少し息ができた。


インフォメーションという百貨店の顔ともいえる職場で、突然優斗が現れたりはしないだろうかと不安になることはある。

でも、そんなことを怖がっていては、何もできないと思えるようになってきた。


そして、今から朝倉と共に新しい住まいの計画を立てる。

前を向いて、1歩踏み出せる自分を褒めたいと思った。



階段を下りていくと、SUVの窓が開いている。


朝倉がこちらを見ているのに、黙っているので不安になった。


「変ですか?」

ワンピースの襟元を少し摘まんで、尋ねる。



「いえ…よく似合ってます」


一拍遅れて、返事が返ってきた。

朝倉が、気を取り直すように視線を前に戻した。


ひよりは助手席に座るとシートベルトを締める。


「先に軽く何か食べませんか?」

「物件を見る前に」


その穏やかな提案に、ひよりは少し笑って頷いた。


5月の空は高く、今日も快晴だ。



挿絵(By みてみん)



5


朝倉が選んだのは、大通り沿いにある小さなカフェだった。


休日の昼前で、店内はほどよく混んでいる。

窓際の席に案内されると、ひよりは少しだけ肩の力を抜いた。


誰かと向かい合って座る。

流れる時間は遅く感じられた。

優斗とは、こんなふうに外でゆっくり話したことがあっただろうか。

食事はいつも、彼の空腹を満たすためのものだった。

話すというより、機嫌を損ねないように相槌を打つ時間だった。


「何か食べられそうですか」


朝倉に聞かれて、ひよりはメニューを見た。


「……サンドイッチなら」


「じゃあ、俺もそれにします」


「朝倉さんは、食べたいもの選んでください」


「食べたいですよ。サンドイッチ」


真面目な顔で言うので、ひよりは少し笑ってしまった。


「本当ですか?」


「半分くらい」


「半分なんですね」


「残り半分は、あなたが食べやすそうだったから」


さらっと言われて、ひよりは目を伏せた。

そういうところだ、と思う。


何かを押しつけるわけではない。

でも、こちらをちゃんと見ている。


注文を終えると、ひよりはスマホを取り出した。


「いくつか、気になってる物件を見つけたんです」


「見ても?」


「はい」


テーブルの上で、スマホを朝倉の方へ向ける。

朝倉は身を乗り出しすぎない距離で、画面を覗き込んだ。


「ここは……職場に近いんです。駅からも近いし」


「オートロックですね」


「はい。でも家賃が高めで」


朝倉は画面をスクロールしながら、間取りではなく地図を開いた。


「夜の道、ちょっと細いですね」


「そこを見るんですね」


「見ます。癖です」


朝倉は真剣な顔で地図を拡大する。


「大通りから一本入ってますね。帰宅時間が遅いなら、少し気になります」


「じゃあ、こっちは?」


ひよりが次の物件を出す。


「ここは駅から少し歩くんですけど、家賃が今より安くて」


「管理会社が大手ですね。入口も道路に面してる。コンビニも近い」


「コンビニが近いと安心ですか?」


「明るいし、人の出入りがあります。

ただ、深夜に騒がしくなる場所かどうかは見た方がいい」


「朝倉さん、すごい」


ひよりが素直に言うと、朝倉は少しだけ目を伏せた。


「仕事柄です」


「部屋選び、向いてますね」


「初めて言われました」


「じゃあ、これから副業できますね。防犯目線の物件相談」


「……需要ありますかね」


「私にはあります」


言ってから、ひよりは自分で少し照れた。

朝倉も、何か言いかけてやめた。


サンドイッチが運ばれてくる。

白い皿の上に、三角に切られたパン。

レタスとハムと卵。

なんでもない昼食なのに、ひよりには少し特別に見えた。


食べながら、また物件を見る。


三つ目の物件を開いたとき、ひよりの指が止まった。


「ここ……」


「どうしました?」


「朝倉さんの家、この辺りじゃなかったですか?」


朝倉の手が、一瞬だけ止まる。


「……そうですね」


「近いですね」


「……近いです」


朝倉は妙にまっすぐ画面を見ている。

ひよりはその横顔を見て、少し首を傾げた。


「今、困りました?」


朝倉は沈黙した。


「……困りました」


「どうして?」


朝倉は、コーヒーカップに指をかけたまま、ゆっくり答える。


「喜びそうになったので」


ひよりの胸が、音を立てた気がした。


冗談にしてしまえばよかった。

「何それ」と笑えばよかった。

でも、朝倉の声があまりに正直だったから、笑えなかった。


「……喜んで、くれるんですか」


聞いてしまった。


朝倉は少しだけ困った顔をする。

それから、諦めたように言った。


「はい」


ひよりは慌てて、スマホの画面に視線を戻した。

文字がぼやける。

家賃も間取りも、急に頭に入ってこなくなった。


「ここ、候補に入れてもいいですか」


「もちろん」


「防犯面は?」


朝倉は画面を見て、いつもの調子に戻ろうとしたようだった。


「悪くないです。駅からの道も明るい。入口も見通しがいい」

「ただ、近いから勧めてるわけじゃないです」


「分かってます」


ひよりは小さく笑った。


「でも、近いのは……少し、安心します」


朝倉の目が、また少しだけ揺れた。


その揺れを見るたびに、ひよりは思う。

この人は、自分の気持ちを簡単に押しつけない。

でも、隠しきれてもいない。


それが、嬉しかった。


6


カフェを出ると、午後の光が少し傾き始めていた。


五月の風は柔らかい。

さっきまで物件の話をしていただけなのに、ひよりの心は不思議なくらい軽くなっている。


「今日、ありがとうございました」


歩きながら、ひよりが言った。


「まだ決まってませんよ」


「でも、前に進んだ気がします」


朝倉は少しだけ頷く。


「それなら、よかった」


大通りの信号で立ち止まる。

隣に朝倉がいる。

それだけなのに、ひよりは周囲の音が遠く感じた。


車の音。

歩行者の話し声。

信号機の電子音。


全部があるのに、朝倉の気配だけが妙に近い。


「……今日」


朝倉が先に口を開いた。


「はい」


「会えてよかったです」


ひよりは、信号を見たまま固まった。


「物件の相談ができたから?」


そう聞くと、朝倉は少し間を置いた。


「それもあります」


「他にも?」


青に変わった信号を、周りの人が渡り始める。

けれど、ひよりはまだ動けなかった。


朝倉は、ひよりの横で静かに言った。


「顔が見たかった」


風が、一瞬止まった気がした。


ひよりが顔を上げると、朝倉は少しだけ気まずそうに前を見ている。


「……すみません。今のは、忘れてください」


「忘れません」


即答してしまった。

自分でも驚くくらい、早かった。


朝倉がこちらを見る。


「……困ります」


「私も困ってます」


言ってから、ひよりは笑ってしまった。

朝倉も、ほんの少しだけ笑う。


ふたりとも困っている。

それなのに、嫌じゃない。


信号が点滅し始めて、朝倉が言った。


「渡りましょう」


「はい」


歩き出したとき、朝倉の手が少しだけひよりの近くに来た。

触れない。

でも、何かあればすぐ支えられる距離。


ひよりはそれに気づいて、胸がまた温かくなる。


守るというのは、こういうことなのかもしれない。

前を塞がない。

手首を掴まない。

ただ、転ばないように、届く場所にいてくれる。


ひよりは、横にいる朝倉を見ないようにした。

見たら、また何か言ってしまいそうだった。


駐車場に戻る前に、朝倉がふと立ち止まった。


「少し、遠回りしてもいいですか」


「え?」


「この辺り、候補の物件に近いので。夜道を見ておきたい」


やっぱり仕事の顔だ。

ひよりは笑った。


「はい。お願いします」


夕方の住宅街を、ふたりで少し歩いた。


街灯の位置。

人通り。

コンビニまでの距離。

建物の入口の明るさ。


朝倉は真面目に見ている。

ひよりも横で頷きながら歩く。


それはきっと、デートと呼ぶには甘さが足りない。

でも、ひよりには今までで一番、恋に近い時間だった。


7


帰り道、車内は静かだった。


けれど、最初に送ってもらった時の静けさとは違う。

あの時は、怖さと疲れで言葉が出なかった。


今は、言葉がなくても落ち着いていられる。


マンションの前に着くと、ひよりはシートベルトを外した。

でも、すぐにドアを開けられなかった。


「……朝倉さん」


「はい」


「今日、とても楽しかったです」


朝倉が、ゆっくりこちらを見る。


「引っ越しの相談なのに?」


「はい。変ですよね」


「変じゃないです」


朝倉は少しだけ目を細めた。


「俺も、楽しかった」


ひよりは息を止めた。


“俺も”。


その二文字だけで、今日の一日が急に色を持つ。


「……じゃあ、また相談してもいいですか」


「もちろん」


「物件、もう少し見たいので」


「はい」


「あと……」


ひよりは言いかけて、やめた。


朝倉は待つ。

急かさない。

聞き出そうともしない。


その沈黙に甘えて、ひよりは小さく言った。


「また、会いたいです」


朝倉の表情が、一瞬だけ止まった。


それから、ゆっくり息を吐く。


「……俺もです」


短い返事。

でも十分だった。


ひよりは車を降りた。

階段を上り、部屋に入る。


鍵を閉める。

カーテンを閉める。


その一つ一つが、もう“閉じ込める”動作ではなくなっていた。

自分を守るための動作だった。


スマホを手に取る。


〈鍵、かけました〉

〈カーテンも閉めました〉


送信すると、すぐに既読がついた。


〈よくできました〉


ひよりは思わず笑った。


〈子ども扱いですか?〉


少し間があって、返信。


〈大事に扱ってます〉


ひよりはスマホを胸に押し当てた。


どうしよう。

嬉しい。

嬉しくて、少し怖い。


ベッドに座る。

部屋はまだ、優斗の痕跡が残っている。

でも、以前ほど息苦しくない。


その夜、ひよりはなかなか眠れなかった。


怖いからではない。

胸の奥が、ずっと温かくて落ち着かなかったからだ。




第9話おわり


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