第10話 「隣に立つ人」最終回
第10話は一人称でお届けしています。
1
鍵は掛けた。
カーテンも閉めた。
明かりも消して22時。
寝ようと目を閉じると、今日、彼と過ごした時間が蘇る。
サンドイッチを食べながら、私のスマホを見ているまっすぐな瞳。
お互いの住む場所が近いと安心だと、照れたように伏せたまつ毛。
前を見たまま“顔を見たかった”と言ってくれた、彫刻のような横顔。
なにより、私の安全しか考えていないような言動。
私、どうかしてしまったのかもしれない。
職種は違えど、職場は同じ。
広い館内で、同時刻に館内にいても会えない日もあるだろう。
それでも、何キロも離れたところで仕事をしているわけじゃない。
その気になれば、顔を見ることくらいはできるはずだ。
それ以前に、私は2時間前まで朝倉さんと一緒にいた。
それなのに、もう、会いたい。
この部屋に染み付いた忘れたい記憶は未だある。
でも、怖くはない。
眠れないのは、彼を思い出すから?
心臓の鼓動がいつもより、早いから?
こんな夜はどうすればいいんだろう?
“今すぐ、会いたい”と言えば、彼は困るに違いない。
彼の迷惑にはなりたくない。
どうか、彼が深く眠っていますように…
私のわがままな通知音に眠りを妨げられませんように…
目覚めたときに、私の自分勝手なメッセージを見ても、笑って許してくれますように…
〈起きてますか?〉
〈今すぐ、あなたに会いたい〉
――送信――
2
〈鍵は掛けました〉
〈カーテンも閉めました〉
何度見たって、文言は変わらない。
わかっているのに、何度も見る。
今日、彼女からの“相談”で新居探しを手伝った。
水色のワンピース姿の彼女を見たとき、すぐには声をかけられなかった。
あまりに眩しかったから。
配置転換で大蔵屋の警備主任を任された当日から、俺は彼女を知っている。
知っているというより、よく見かけていた。
インフォメーションカウンターは正面玄関に近く、目につきやすい位置にある。
第一印象は花が咲くように、きれいに笑う人だと思った。それだけだった。
なのに、いつの間にか目が離せなくなっていた。
強いて言えば、助けたお礼をもらったあのカフェで、帰り際に言われた一言だったかもしれない。
「朝倉さんも、無理しないでください」
この仕事に就いてから、そんなことを言われたのは初めてだった。
身辺警備や不審者対応、現金輸送も気を張り詰める。
無理しないとできない仕事だからだ。
だけど、ずっと無理をしていたのは彼女だ。
これからは、彼女が安心して歩けるように手の届く場所にいたいと思った。
車を降りる前に“また、会いたいです”と言った、その言葉と声が耳から離れない。
寝ようと思うのに、眠れない。
こんな夜は、どうすればいいんだろう?
今すぐ会いたいなんて、言えるわけがない。
彼女の迷惑にはなりたくない。
ピコン…
〈起きてますか?〉
〈今すぐ、あなたに会いたい〉
「…嘘だろ」
反射的に起き上がっていた。
返信より先に、上着を掴む。
いや。待て。
彼女は“会いたい”と言った。
それは、不安か?怖いのか。
俺が、勢いで踏み込むのは違うかもしれない。
画面に指を置く。
〈今から行きます〉
違う。打ち直す。
〈下まで行きます〉
〈外で待たないで〉
3
どうしよう! 送信してしまった。
朝倉さん、寝てて。お願い。
これじゃ、駄々をこねる子どもと変わらない。
ピコン
〈下まで行きます〉
〈外で待たないで〉
「えええ!!」
慌てて、起き上がり、明かりを点ける。
鏡を見る。
こんな顔で? 彼に会うの? 今から?
せめて、ブラシで髪を梳かす。
会いたいなんて言うんじゃなかった。
彼には……
朝倉さんには一番きれいな私を見せたいのに。
幻滅されないだろうか?
わがままな女だと軽蔑されないだろうか?
私には、もったいない真面目で誠実なあの人を振り回してはいないだろうか?
急に不安になる。
カーテンを細く開けて、外を見る。
市道から、こちら側の生活道路に入ってくる車のライトが見える。
この格好のままじゃ、寒いかも?
いや、もう、どうでもいい。
家の鍵とスマホを掴んで、靴を履く。
階段を降りると、そこに立つ人がいる。
思わず、零れた。
「ごめんなさい」
数歩歩いてきた朝倉さんは、少し心配そうに言った。
「どうした。怖くて眠れなかった?」
ああ、私は何度目かわからないほど、彼を心配させている。
「違うの…怖かったんじゃないんです」
「何かあったわけでもなくて」
「ただ、あなたに会いたかっただけなの」
4
“あなたに会いたかっただけ”
その言葉を聞いた時、ちょっと息が詰まった。
怖かったわけでもなく、困ったことがあったからでもない。
彼女は、俺に会うためだけに降りてきた。
それがわかった途端に、これまで自分を支えていた線が、ひどく頼りないものに思えた。
彼女はこれまで自分の身を削ってまで、あの男のために尽くしていた。
だからこそ、傷ついたばかりの彼女に、自分の気持ちを押し付けたくなかった。
救いに見せかけて、逃げ道を塞ぐのは卑怯だと思った。
彼女が自分の足でこちらへ来るまで、待つつもりだった。
その理性が、今にも崩れそうだ。
抱きしめたい。
けれど、手は動かせない。
ここで、俺が奪うように抱き寄せてしまっていいのか。
詰まった息を吐く。
「謝らないで」
「俺も、会いたかった」
ずっと、飲み込んできた言葉は、出してしまえばあまりにも簡単だった。
彼女の目が、じわりと濡れる。
このままここにいたら、理性が飛びそうだ。
「少し、歩きませんか」
そう言って、誤魔化すしかなかった。
5
「もう少し先へ行くと、公園があるんです」
当てもなく歩くより、目指す場所があったほうがいいかと思って、そう言った。
「いいですね」
朝倉さんは、気軽に言って歩き出す。
本当に来てくれた…
朝倉さんも“会いたかった”と。
私と同じ気持ちでいてくれたの?
無理をしていないといいけど。
申し訳ない気持ちでいっぱいになって、話せずにいた。
でも、朝倉さんはちょっと楽しそうに笑う。
「俺は、今日ツイてる」
うつむき加減だった私は、頭を上げて彼を見上げる。
「それなら、私もツイてます」
彼も、少し下を向いて私を見る。
「2回も会えた」
ああ、もう…こみ上げる気持ちが止まらない。
すぐ横にある彼の腕にしがみついてはダメかしら?
彼の手に、指を絡めてはいけないかしら?
公園の入り口は数か所あって、この入り口のそばにあるコンビニがひどく明るく見える。
公園に入ると、彼が思い出したように言う。
「手首の痕は残ってませんか?」
「痛みも、もうない?」
また、心配してる。
「もう、大丈夫です。見ますか?」
そう言って、服の袖を少し上げると、朝倉さんは私の手首に吸い寄せられるように、身をかがめる。
私の目線まで朝倉さんの横顔が下りてきて、その背中越しに公園の街灯が見えた。
なんとなく、彼の肩へ手をかける。
もう一方の手で彼の頬を包むと、私の手首を見ていた彼は“え?”と私を見る。
そして、私は唇で彼の唇に触れた。
ほんの一瞬。
触れただけ。
それなのに、全身の熱が一気に顔へ集まった。
朝倉さんは、固まっていた。
いつも落ち着いていて、何があっても慌てないような人が、今だけは息を忘れたように私を見ている。
「あ……すみません」
反射で、謝ってしまう。
「今のを謝られたら、俺が困る」
朝倉さんは、少しだけ息を吐いた。
「今度は、俺がしたいから」
「嫌ですか?」
胸がきゅっと鳴る。
「嫌じゃありません」
その言葉を聞いてから、朝倉さんの腕が私の背中に回る。
倒れないように支える手だった。
二度目のキスは――
急がない。
でも、遠慮もしない。
そして、深い…
私は、朝倉さんのジャケットを小さく掴んだ。
唇が離れたとき、息の仕方を少し忘れていた。
朝倉さんの額が、私の額にそっと触れる。
「ひよりさん」
声がかすれている。
「今日の俺は、めちゃくちゃツイてる」
そう言って、笑った。
エピローグ
6月、梅雨の中休み。
まだカーテンのない窓を全開にしている。
明るい光が、部屋いっぱいに差し込んでいた。
段ボール箱を開けていると、朝倉さんが戻ってきた。
手には大きな袋を下げている。
「あ、おかえりなさい」
袋を受け取って広げる。
中には、おにぎりやお茶、プリンとシュークリームがいくつも入っていた。
「また、こんなに買ったんですか?」
責めるつもりは、毛頭ない。
朝倉さんは平然として言う。
「好きでしょ?」
以前寄ったコンビニで、私が「おいしい」と言ったプリンだ。
それからは、毎回買ってきてくれる。
嬉しいけど、数が多い。
「太らせたいんですか?」
「もう少し太ってもよくない?」
「ひよりさん、軽いから」
“軽い”という言葉だけで、ひどく赤面してしまった。
そんな私を見ないふりして、彼は窓辺に立つ。
「ここ、明るいですね」
私は、窓の外を見て笑った。
「ここにしてよかったです」
窓の外には、よく晴れた空が広がっていた。
今日みたいな日を、きっと日和というのだと思った。
(おわり)
番外編につづく
番外編は日常のほのぼのストーリーです。
本編、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。




