第8話 「白い噓」
1
取調室は、息が詰まるほど狭かった。
壁も机も、同じ薄い色。音だけが目立つ。
瀬尾優斗は椅子に座ったまま、足先で床を小さく叩いていた。
落ち着かないのをごまかす癖だ。
向かいの刑事が、書類を一枚、机に置く。
「瀬尾。まず確認する。今日の件――通勤路で女性の手首を掴んで路地に引き込んで金を要求した。脅し文句も言った。ここまでは間違いないな」
優斗は鼻で笑った。
「盛ってますよ。あいつ、俺のこと悪者にしたいだけなんで」
刑事は表情を変えない。
「“悪者にしたい”って言うなら、その根拠を言え」
「……」
優斗が黙った瞬間、刑事は淡々と続けた。
「手首には痕が残ってる。現場にいた第三者の証言もある。ここで強がっても得しない」
優斗の喉が動く。
「……触っただけです。引っ張ったのは……ちょっと」
「ちょっと、で痕はつかない」
刑事はペンを置き、別の紙を出した。
「で、次だ。DUモバイルの件。販促品のワイヤレスイヤホン、条件を偽って渡さずに横流し。フリマアプリで売却。履歴も発送もある。会社の被害申告は現時点で七十万超。ここはどうだ」
優斗は一瞬、目線を逸らした。
その瞬間が、答えみたいだった。
「……俺だけじゃないっすよ」
「“みんなやってる”?」
刑事の声が少しだけ冷たくなる。
「客だって、もらった特典を売る。普通にある話だろ」
「それは“自分の物”を売ってる。お前がやったのは“渡すべき物を渡さず”に、会社の物を抜いて売ってる。別物だ」
優斗は唇を噛む。
「……棚の奥に余ってたやつです。誰も見てない。管理もしてない」
「管理が甘いなら抜いていい、にはならない」
刑事は言い切って、少し間を置いた。
「で、ここからが本題だ。お前は今日“弁済が必要だ”と分かった上で、彼女に金を出させようとした。……なんでそこまで金がないんだ?」
優斗は肩をすくめる。
「生活費とか…、いろいろあんだろ」
「彼女の部屋に住みついて、生活費はほぼ出してないって話も出てる。矛盾してる」
優斗の目が、鋭くなる。
「……あいつが勝手に出してただけだろ」
刑事はページをめくる。
「“勝手に”ね。じゃあ、これは何だ」
スマホの画面が机の上に置かれる。
同じ番号からの不在着信が、いくつも並んでいる。
機械的な音声案内の履歴。
折り返しを促すメッセージ。
優斗の呼吸が一瞬止まる。
「……知らねぇ」
刑事は即答する。
「知ってるから出ない。切らない。
カード会社と督促窓口だ。文言も一致してる」
優斗は舌打ちしかけて、飲み込んだ。
「……出たくなかっただけだ」
「“出たくなかった”のは何でだ」
優斗は答えない。
刑事は続ける。
「カードの支払いが止まってる。限度額も超えてる。リボも分割も積んでる。で、払えない。……ここまでは合ってるな」
優斗は歯を食いしばった。
「……」
「で、金の使い道だ。お前、酒は飲めない。ギャンブルも決定打はない。なのにカードが膨らむ。何に使った」
優斗は肩をすくめる。
「いろいろっすよ」
「“いろいろ”じゃ調書にならない。具体で言え」
優斗は一拍置いて、吐き出す。
「靴とか服。ガジェット。タクシー代とか。
後輩に奢る。……ケチって思われたくないんで」
刑事が言う。
「それで限度額までいった?」
優斗は目を逸らす。
「……いったんじゃないっすか?」
「女は?」
優斗が、鼻で笑う。
「……時々。飯とか。プレゼントとか、まあ、ホテル代?」
「付き合ってた?」
「付き合ってねぇよ。向こうも本気じゃねぇし」
「名前は」
「……知らねぇっす」
軽い。
あまりにも軽い。
刑事は淡々と結論を置く。
「つまり、お前は“生活”じゃなくて“体裁”に金を使った」
優斗の喉が鳴る。
「…………」
「……あいつは、“ちゃんとしてる”からさ」
刑事が目を細める。
「ちゃんとしてる?」
優斗は吐き捨てるように言って、少しだけ声を落とした。
「怒鳴らない。言い返さない。
飯はあるし、部屋もある。
俺がダメでも、“いいよ”って言う」
刑事は黙って聞く。
優斗は、ぽろっと言った。
「……安心するんすよ」
「安心?」
優斗は一瞬だけ迷って――言ってしまう。
「母親みたいで」
その言葉が、部屋に落ちる。
「何も言わなくても、戻れると思ってた。
多少ひどくしても、最後は許すって」
刑事は静かに言う。
「それが“無償の愛”だと思ってた?」
優斗は答えない。
答えないことが、答えだった。
2
刑事が次の紙を出す。
「で、お前は“彼女も知っていた”と言った。なんでそんな嘘をつく」
優斗の目が、ギラつく。
「嘘じゃねぇ」
「根拠は?」
「俺の……スマホ見てた」
刑事が言う。
「通知を見ただけで共犯? 苦しいな」
優斗は唇を噛む。
「……分かってたはずだ」
「“はず”は証拠にならない」
刑事は言葉を切る。
「お前が一番怖かったのは、金じゃないな」
優斗の目が揺れる。
「……は?」
「彼女が、自分から離れることだ」
優斗は言い返さない。
「だから鎖を強くした。
金を理由にして」
3
刑事がペンを差し出す。
「供述、まとめる。読んで、間違いがなければ署名」
紙には、冷たい文字が並ぶ。
――販促品の不正流用
――売却
――弁済困難
――金銭要求
――脅迫的言動
優斗は、その中の一文を見て目を細めた。
――「交際相手に対し、名誉を毀損する旨の発言」
「……これ、消せよ」
刑事は首を振る。
「消えない。お前が自分で言ったんだ」
優斗は拳を握る。
それでも、結局ペンを持った。
署名する音が、やけに大きく響いた。
4
供述書に署名した直後、優斗は椅子に深く沈んだ。
それでも、終わらせたくない。
「……ちょっと待ってください」
刑事が振り向く。
「まだ言いたいことがあるのか」
優斗は頷く。
「全部俺が悪いみたいになってるけど、違うんすよ」
「なにが?」
優斗は言葉を選ぶ。
「……ひよりがさ」
その名前だけ、少し柔らかい。
「結構きついんすよ。正しいことばっか言う」
刑事は黙る。
「俺が“金ない”って言ったら、最初は出す。
でもその後、“また?”って顔する」
優斗は続ける。
「頼ってるだけなのに、責められてる気になる」
刑事が言う。
「それが横流しの理由か?」
優斗は一瞬黙る。
「……俺だけのせいじゃないって話っす」
刑事は目を細めた。
「甘えるな」
優斗は笑う。
「別に…甘えてなんか…」
そして、ぽつりと本音が漏れる。
「……あいつ、俺がいないと回らないくせに」
刑事は何も言わない。
「俺が帰る場所、作ってやってたのに」
その言葉の幼さに、部屋が静まる。
刑事が静かに言う。
「それを“支配”って言うんだ」
優斗の顔が歪む。
「……俺だって、怖かったんすよ」
「何が」
「終わるのが」
刑事は短く言う。
「それはお前の行動の結果だ」
優斗は、睨む。
それでも最後に、もう一度だけ足掻く。
「……どうせ、あいつも最後は離れる気だったんすよ」
刑事は答えない。
沈黙だけが返る。
優斗は、それ以上何も言えなかった。
ドアが開く。
外の音が少しだけ流れ込む。
取調室には、白い机と、白い壁と、
自分が吐いた言葉だけが残った。
(第8話・終)




