第7話 「届く音」
第7話「届く音」
1
警察署の会議室は、妙に明るかった。
白い机、白い壁、白い蛍光灯。
現実を薄めるための色みたいで、逆に息が詰まる。
「じゃあ、確認しますね」
刑事が淡々とした声で言って、ペン先を紙に落とす。
「高阪さん」
名前を呼ばれて、ひよりは顔を上げる。
「事情、聞かせてもらえますか」
「……はい」
返事の声が、自分のものじゃないみたいに細い。
「朝、通勤中に……交際相手が待っていて……」
「手首を掴まれて、路地に引っ張られました」
「バッグの中をかき回されて、名刺を見つけて、それをネタに……職場を潰すって、言われました」
細かい質問が間に入る。
何時ごろ?とか、手首はどんな風につかんだのか…とか、右手か左手どっちだったとか。
言葉にするたび、喉の奥が熱くなる。
「金銭を要求され、拒否すると、職場への中傷を示唆された」
「その後、第三者が介入し、胸ぐらを掴むなどの暴行に及んだ」
「なるほど」
刑事は頷きながら、必要なところだけ確認する。
「その“名刺”って、誰のですか」
「職場の……警備の方です。先日、助けてもらって……」
「ひったくりに遭って転んで……彼がバッグを取り返してくれました」
「連絡先を交換してた?」
「名刺をもらいました。私がお礼をしたくて……」
「……それだけです」
“それだけ”に、何か余分な色が付かないように、ひよりは言い切った。
刑事はペンを止めて、短く言った。
「怖かったですよね」
ひよりは、小さく頷いた。
――怖かった。
「被害届を出すなら、病院で診断書、書いてもらってください」
「その手首、今は赤いし痛いだろうけど、明日にはもっと痛くなるかもしれませんしね」
ひよりは、少しだけ息を吸って答えた。
「……出します。被害届」
口にした瞬間、胸の奥がほんの少し軽くなる。逃げたままにしたくなかった。
刑事は頷き、ドアを開けてくれた。
2
廊下に出ると、壁にもたれて待っていた朝倉がいた。
制服じゃない。黒いジャケット。けれど姿勢だけは“現場”の人のままだ。
朝倉も事情を聞かれていたようだ。
ここにいてもおかしくない。
なのに、ひよりはほっとしてしまう。
目が合った瞬間、ひよりの中で張りつめていた糸が、少しだけほどけた。
「……終わった?」
朝倉が低い声で言う。
「……はい」
朝倉は、ひよりの手首を見て眉を寄せる。
「痛みは?」
「……触ると、ちょっと」
「病院、行けますか」
「行けます。たぶん……」
“たぶん”がつく自分に、少し腹が立つ。
だけど、朝倉は責めない。
「じゃあ、あとで一緒に。……付き添います」
ひよりは思わず笑いそうになる。
“付き添い”という言い方が、優しすぎて。
「……ありがとうございます」
1階へ降りる階段に向かおうと足を向けたとき、さっきの刑事が近づいてきた。
「瀬尾の別件ですが、社内調査で販促品の不正流用が疑われてます」
「被害額は現時点で、約70万円」
「本人は“交際相手も知っていた”と主張しています」
世界が一瞬、止まった気がした。
「……私も?」
声がかすれる。
「ええ。本人がそう言っています」
“言った”という事実だけで、嫌悪感が広がる。
ひよりは思わず自分の服の裾を握りしめた。
朝倉が一歩、ひよりの横に立つ。
視線は刑事じゃなく、ひよりに向いていた。
「大丈夫」
朝倉が励ますように言う。
「嘘は、どこかで綻びる。調べれば分かる」
ひよりの喉が鳴った。何か言いたいのに、言葉が出ない。
刑事は頷いて続ける。
「今後、会社からも確認が入るかもしれません」
「もちろん、こちらも、ヤツの“言い分だけで”判断はしません」
「ただ、あなたにも確認が必要です。瀬尾が販促品を売っていたことを、知っていましたか?」
ひよりは首を振る。
「……知りません」
「出勤前、家で……たまたまスマホの通知を見ました」
「“フリマで何か売ったのかな”って……それ以上は」
「その時、瀬尾に聞きましたか?」
「……聞けませんでした」
「聞いたら、怒られるって思ったから」
「怒られる?」
刑事は眉根を寄せる。
「はい……聞かれたくないことを聞いたり、言い返すと怒られます」
口にすると、少しだけ強くなれる気がした。
ひよりは、初めて自分の言葉で“怖さ”を形にした。
刑事が「分かりました」と頷き、去っていった。
廊下に残ったのは、ひよりと朝倉だけだった。
ひよりは壁の時計を見た。
もう出勤時間なんて、とっくに過ぎている。
「……会社、どうしよう」
呟くと、朝倉は迷いなく言った。
「あなたの上長に、俺の方から連絡しておきました」
「『警察沙汰のトラブルに巻き込まれた』って」
その言い方は、業務の顔を借りている。
でも、ひよりには分かった。
それは“守るための言い方”だ。
ひよりは小さく首を振った。
「……でも、迷惑かける」
朝倉が、少しだけ目を細める。
「あなたが迷惑をかけたんじゃない」
その瞬間、ひよりの目に涙が滲んで、零れて落ちた。
3
ひよりの涙を見て、朝倉が廊下の長椅子に座らせてくれた。
しばらく待って、呼吸を整える。
「落ち着いた?」
朝倉が心配そうに聞いてくる。
「……私、あの人が好きだったんです」
言ってから、ひよりは自分でも少し驚いた。
何が、どこが好きだったのかと聞かれても、うまく答えられない。
最初に助けてくれたこと。
自分にだけ甘えてくるように見えたこと。
子供みたいにご飯を食べる彼を、可愛いと思ってしまったこと。
多分、それだけだった。
ここでひよりは「優斗が好きだった自分」を、やっと許せる気がした。
「好きだったから、我慢が愛だと思ってた…」
「私が我慢すれば、うまくいくと思ってました」
「私だけは、あの人をわかってあげられるって」
言葉にして、ようやくわかる。
好きだった。
でも、大事にされているわけじゃなかった。
朝倉は否定しない。
「好きだったことまで、間違いにしなくていい」
「でも、傷つけられ続ける理由にはならない」
その言葉が、ひよりの胸の奥に落ちる。
ひよりは、自分でも驚くほどはっきり言った。
「……朝倉さん」
呼ぶと、朝倉は静かに目を上げた。
「今日、来てくれて……ありがとうございます」
朝倉は一瞬だけ口を結んで――小さく笑った。
「……いつでも相談してくださいって言ってくれたの、覚えてますか」
朝倉の目が、ほんの少しだけ揺れた。
「……撤回しません」
ひよりの胸がトクンと鳴った。
まだ形になっていないのに、確かに届いた気がした。
(嬉しかった。そう言われたことが、ただの慰めじゃなく聞こえた。)
遠くで、署内の電話が鳴る。
現実が戻ってくる。
でも、ひよりはもう、さっきよりずっと真っ直ぐ立っていた。
(第7話 終わり)




