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ひより日和  作者: mamio
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6/18

第6話 「届く場所」

1


いい天気だ。

雨でも降っていればよかったのに。


大蔵屋百貨店の従業員通用口の近く。

裏通りの路肩に車を停めている。


エンジンを切って、濃紺のパーカーのフードを被る。

ワイパーのレバーにひっかけてあるマスクを取ろうとしたとき、ポケットの中のスマホが振動した。


「チッ…」


スマホ画面の番号を確認して、思わず舌打ちが漏れる。

電話には出ない。

そのまま鳴り止むまで放置した。


振動が止むと、ようやく息が吐けた。

8時半。


優斗はドアを開け、足を道路に降ろした。


2


大蔵屋百貨店の従業員通用口へ向かう裏通りの朝は、表の賑わいと違って静かだった。

開店前の空気はまだ冷たく、足首の痛みはあまり気にならなくなっている。


ひよりは通用口の少し手前まで来た。


そのとき――

路地に、見覚えのある車。

誰も、乗っていない。


「あの車……?」


胸の奥がいやに重くなる。

見たくないのに目が勝手に吸い寄せられる。


次の瞬間、背後から影が飛び出した。


「……ひより」


低い声。

パーカーのフードを目深に被り、マスクで顔を隠している。

でも声で分かる。


「優斗……?」


返事をする前に、手首を掴まれた。

強い。骨がきしむほど。


「痛っ!」

「なに? 話ならここで――」


「いいから来い」


優斗は、有無を言わせず路地の奥へ引っ張る。

車の影。外から見えにくい角。


「やめて、遅刻する……!」


ひよりが振りほどこうとすると、優斗の手が強引に口を塞ぐ。


「騒ぐな」


息が詰まる。

怖い――けど、怖いと認めた瞬間、崩れてしまいそうになる。

口を塞がれたまま視線を上げる

騒がないから――と目で訴える


優斗が手を緩める。


「優斗、やめて。お願い」


優斗は耳元で、吐くように言った。


「金、いるんだよ」

「今すぐ」


「……何の話」


「とぼけんな」

「お前、知ってんだろ。イヤホンのこと」


ひよりの心臓が一拍、落ちた。


(やっぱり……)

(あれは、ただの“売った”じゃない)


「……知らない」


それは半分嘘で、半分本当だった。

“確信”はしている。でも“証拠”はない。


優斗の目が、薄く細くなる。


「じゃあ、見せろ」


「なにを――」


「バッグだ」


3 


優斗の手が、ひよりのバッグに突っ込まれる。

財布。鍵。スマホ。ポーチ。

乱暴に探られるたびに、バッグの中身がバラバラになる。


「やめて!」


ひよりが止めようと手を伸ばす。


そのとき――

薄い紙の角が、優斗の指に引っかかった。


「……は」


優斗が引き抜いたのは、名刺。


「KSS 朝倉……?」


ひよりの血の気が引く。


優斗は名刺を見て、笑った。

笑ってるのに目は冷たい。


「やっぱりな」

「……あの警備の野郎か」

「なるほどな。だから、あの時来たってことか」


「違う、これは――」


優斗は名刺を握ったまま、声を落とした。


「金出せ」

「今すぐ」

「会社の損害を弁済しないとなんねぇんだよ」


「……は?」


「俺、終わるんだよ。今日で」

「懲戒だってさ」

「金返さないと、横領で捕まる。」


ひよりは息を呑んだ。


(懲戒……解雇?)

(だから、ここに……?)


「あなたが……やったことの結果でしょ……」


ひよりが声を絞り出すと、優斗の顔が歪む。


「うるせぇ」

「俺が悪いって言いたいのか?」

「お前だって俺に金出させてたじゃん」


「……出させてた?」

「私が、ほとんど――」


言いかけて、やめる。

今ここで“お金”の正論を言っても、優斗は聞かない。

怒りに変換して逆上されたらたまらない。


優斗は名刺をひよりの目の前で揺らした。


「これ、職場にバラす」

「お前は、俺と警備の男と二股かけて、平気で遊ぶアバズレ女だって、ビラ撒いてやる」

「今日だけじゃねぇから」

「明日も、明後日も。

お前が出勤するたび、正面玄関でやってやる」

「客の前でやれば、店は動く。

“インフォメのトラブル”は一発で回る」

「お前が守りたいもの、全部奪ってやる」


「関係ない人巻き込まないで!」


「ヤダね」


「正論が通ると思うな」

優斗は笑った。笑っているのに、目が冷たい。


「噂ってのは、“そう見えた”で十分なんだよ」

「客の前で一回揉めたら、裏じゃ十倍で噂は回る」


他人を巻き込む。

優斗は確実に“弱い場所”を突いてきた。


「今ここで騒げよ」

「そしたら、昨日も職場で揉めて、今日も男女間トラブルってか?」

「職場の信用ガタ落ちじゃねぇの?」


ひよりの背筋が凍る。


でも優斗は、嘘でも「終わる」と言う。

そしてひよりは、その言葉に縛られる。


(ここで叫べば、誰か助けてくれるかもしれない)

(でも――)

(“騒ぎを起こした人”として見られたら、職場にも迷惑が――)


優斗は、その迷いを見透かしていた。


「乗れ」


車のドアを開ける音。

ひよりの体が、勝手に固まる。


「……いや」


ひよりが一歩下がると、優斗の手がまた強く手首を掴む。


「選べ」

「金出すか、ビラ撒きされるか」

「どっちにする」


4


「今すぐ、金。口座出せ」


ひよりの喉が震える。声が出ない。


そのとき、路地の入口に影が落ちた。


足音が一つ。迷いがない。


「おい!その手離せ!」


低い声。


優斗が振り向くより先に、男が間に入った。

黒いジャケット。

制服じゃない。


朝倉だった。


「……なんだ?てめぇ…」


優斗が吐き捨てる。


朝倉はひよりの顔色を一瞬だけ見て、すぐ優斗に視線を戻した。


「昨日の警備だよ」

短く言って、言い直す。

「今日は“個人的に来た”けどな」


ひよりの胸が、痛いくらいに跳ねる。


朝倉は続けた。


「あんた、昨日と同じこと、またやんのか」

「人前で、従業員に威圧。今日は路地で拘束」


優斗が笑う。


「は? 何だよ。正義の味方か?警備って暇なんだな」


朝倉は笑わない。


「そうだな。あんたに会うまでは暇だったよ。」

「あんたが報復しに来るんじゃないかと思ってな。」


その一言だけで、ひよりの目が熱くなる。


朝倉は声を落とす。


「さっさと離せ」

「——離さないなら、警察を呼ぶ。いまここで」


優斗の表情が一瞬だけ揺れる。


(刑事事件はまずい)

痛い腹を探られる。


優斗の口元が引きつった。


「……警察?は?お前、誰のつもりだよ」


朝倉は一歩も引かない。


「手離せって!」


優斗は舌打ちして、ひよりの手首を乱暴に放した——ように見せて、次の瞬間。


朝倉の胸ぐらを掴んだ。


「調子乗んなよ!」


朝倉の体は揺れない。

掴まれた瞬間、優斗の手首を外側に捻って、胸ぐらをほどく。

動きが速い。


痛みで優斗の顔が歪む。


「っ……!」


朝倉は声を荒げない。


「無駄だ」


優斗は聞こえないふりで、もう片方の手を振り上げる。


ひよりが息を吸った、その瞬間。


朝倉が半歩だけ踏み込み、優斗の腕を背中側に折り込んだ。

重心が崩れ、優斗がよろける。


「うわっ……!」


優斗は転びそうになって、壁に手をつく。

その手の中で、ひよりのスマホが床に落ちた。ガシャン、と嫌な音。


「……っ」


ひよりが反射で拾おうとする。


朝倉が、ひよりに短く言う。


「動かないで」


その一言は、命令じゃない。“守る”の響きをもっていた。


朝倉は優斗を見たまま、ポケットからスマホを出して、迷いなくタップする。


優斗の顔色が変わる。


「おい、やめろ!」

「大げさだろ!」


朝倉は淡々と返す。


「大げさじゃない」

「あんたが今してるのは“脅し”だ」


優斗の呼吸が荒くなる。

ひよりの手首に残った痕が痛々しい。。


「事件です」

「こちら、大蔵屋百貨店、警備のKSSです」 

「場所は——」


優斗が焦って声を張り上げる。


「待て!俺は——」


朝倉は見もしない。


「女性の手首を掴んで、路地に引き込んだ」

「今、暴行未遂。金を出せと強要」


事実だけを積む声。


優斗の顔色が変わる。

“いつもの脅し”が通じない相手だとやっと理解する。


しばらくして制服の警察官が二人、路地に入ってくる。


朝倉が落ち着いて状況を説明する。

ひよりは震えながら、手首の赤い跡を見せる。


優斗が叫ぶ。


「違う!こいつが——」


警察官の視線が冷たくなる。


「落ち着いて。事情聞きます」

「まず、身分証出してください」


朝倉が淡々と補足する。


「通勤路で待ち伏せです」


警察官がうなずく。


「じゃあ、署で話を聞きます」


優斗の顔が、初めて“本気で”崩れる。


4 


路地に静けさが戻った瞬間――

ひよりの足が、ふっと力を失った。


「……っ」


倒れそうになるのを、朝倉が支える。


触れられた瞬間、ひよりの体がびくっとした。

怖い、じゃない。

ただ“優しく触れられた”感覚が、体に馴染まなくて。


「大丈夫?」


朝倉の声が近い。


「……すみません」

「私のせいで……」


ひよりは、いつもの癖で謝った。


朝倉は、眉を寄せる。


「あなたのせいじゃない」

「それ、もう言いましたよね」


ひよりは、涙が出そうで笑ってしまう。


「……はい」


朝倉は、ひよりの手首を見る。赤くなっている。


「痛い?」


「……大丈夫」

「たぶん……」


サイレンの音が遠ざかっていく。


朝倉は、ひよりだけに小さく言う。


「昨日から、嫌な予感がしてた」

「……来てよかった」


その“来てよかった”で、ひよりの目がじわっと滲む。



「巻き込んでしまって、ごめんなさい」


朝倉は首を振る。


「巻き込まれたのは、あなただ」

「俺は——勝手に来た」


ひよりが笑う。泣き笑い。

涙を拭って、思い切って言う。


「あなたの電話番号をあなたの名前で、登録してもいいですか?」

朝倉は、大きく頷いた。


「もちろんです」

「俺も、そうしていいですか?」


ひよりは、少し笑って言った。


「もちろんです」


第6話おわり


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