第5話 「ほどけない予感」
第5話
1
翌朝、ひよりはいつも通りに起きて、いつも通りに身支度をした。
優斗はいない。
夜中だろうか?明け方だろうか?
目覚めたときはひとりだった。
鏡の中の自分は、笑顔を作る準備だけが整っている顔をしている。
昨夜のことを身体が覚えているのに、顔だけが先に社会に出る。
スマホは、静かだった。
——優斗からは、何のメッセージもない。
“遅くなる”とか、“行く”とか、“今から”とか。
それがないと、逆に胸の奥がざわつく。
昨日、私がもう嫌だと言ったから…
ならば一緒にいる意味もないと、出て行ったのか…
終わりなら、終わりでいい。
そう思うのに、終わりが怖い。
ひよりは足首のサポーターを巻いて、低いヒールの靴を選んだ。
痛みはずいぶんマシだ。
でも、仕事中は立ちっぱなしで、ただでさえ足が浮腫む。
玄関を出る前に、深呼吸をひとつ。
(今日も、笑わなきゃ)
2
大蔵屋百貨店の朝は、音が忙しい。
台車のガラガラという音、裏口のシャッターが上がる音、制服の布が擦れる音、誰かが小声で言い合う声。
インフォメーションカウンターに立つと、恵美がすぐ寄ってきた。
「……昨日、大丈夫だった?」
「うん。大丈夫」
恵美は顔をしかめた。
「いや、そういう“返事の大丈夫”じゃなくて」
「昨日、あんた、顔が真っ白だった」
ひよりは笑ってごまかす。
「恵美、朝から鋭い」
「朝だから鋭いの。昼になると鈍る」
そう言って、恵美が小さく息を吐いた。
「でさ。あの警備の人」
「……警備の人?」
「昨日、割って入ってきた人。主任なんだって」
「見た? あの“静かに圧かける”やつ」
「……見た」
恵美は肩をすくめる。
「ああいう人、いると助かるよね」
「うちの“謝り倒す文化”の中で、あれは貴重」
ひよりは笑った。
笑えた自分が、少しだけ嬉しかった。
3
昼休み。
休憩をとるため、カウンターを離れた。
ふと、インフォメーションカウンターの横を通る黒い制服が視界に入った。
朝倉だった。
——昨日よりちゃんと見える。
姿勢がいい。歩き方が静かだ。
誰かを見ているのではなく、全体を見ている歩き方。
目が合いそうになって、ひよりは視線を逸らした。
逃げたいわけじゃない。
ただ、目が合った瞬間に、何か言ってしまいそうで怖かった。
昨日の「あなたのせいじゃない」が、まだ胸に残っている。
(困ったことがあったら、いつでも相談してください)
あの言葉が、甘くないのが、逆に効く。
ひよりはバックヤードへと続く扉を開けた。
4
その頃、駅前のDUモバイルでは、ひよりの知らない空気が動いていた。
朝、DUの店長から、店に来るよう連絡があった。
“聞き取り”のメモ。
“対象顧客リスト”。
そして、”懲戒処分の通知“
処分事由
【会社の金品を詐取流用し、または虚偽の伝票、書類を作成、発行して 自己の利益をはかり、会社に損害を与えたとき。】
「弁済計画を出せ。」
「このままだと刑事事件になるぞ。」
強い視線で店長が言う。
(ふざけんな)
口には出せない。
優斗は、笑ってみせた。
「証拠はあるんすか?」
店長は、疲れた顔で言った。
「フリマ。売却履歴。発送履歴。」
「身に覚えあるんだろ?」
胸の奥がズンと沈む。
「本部が顧客への返金と特典商品の再手配で金も動いてる。」
「損害額は70万ほどだそうだ。」
刑事事件…
その単語だけで、優斗の背筋が冷える。
まだ、何か喋っている店長の声が遠くなる。
そして、別の感情が湧く。
(やばいのは金だ。)
弁済金?
そんなもの払えるわけがない。
それでなくても、カード会社から最終通告書が来ているっていうのに。
優斗は、反射的に考える。
ひより
払えるのは、ひよりだ。
いや、“払える”じゃない。
“払わせる”
刑事事件だけは避けたい。
DUから実家の自室に戻って、スマホを見る。
ひよりからは、何も来ていない。
(俺が悪いみたいになってる)
そう思った瞬間、胸の奥が苛立ちで熱くなる。
“悪い”のは、俺じゃない。
悪いのは、俺を追い詰める状況だ。
金がないのも、店がうるさいのも、本部が来るのも。
そして——
昨日、あの警備の男が、ひよりの前に立った。
あの瞬間に、優斗の中で何かが決まった。
(あいつ、調子に乗ってやがる)
“俺の女”が、誰かに守られて、少しでも顔が変わるのが嫌だ。
優斗はスマホを握り、ひよりのアイコンを押した。
開いて、閉じる。
送る言葉がない。
というより、送るのが負けみたいで腹が立つ。
(先に折れたら終わり)
稚拙な誇りが、優斗を正当化させる。
優斗は画面を閉じた。⸻
5
夕方。更衣室。
紙コップを持った同僚の愚痴が始まった。
「あのさ、駅前のDUモバイルの特典くれないって話だけどさ。」
「ああ、それ、どうなったの?」
別の同僚が、続きを急かす。
ひよりは、背筋が冷えた。
昨日からの、嫌な予感がまだほどけない。
同僚は続ける。
「DU本部から電話きたの。購入履歴確認したいって。
“担当した社員が処分になる”かもって言ってた。怖くない?」
処分。
その言葉が、ひよりの中で音を立てた。
(……優斗が?)
ひよりは、ロッカーの鍵を握りしめた。
怒りより先に来たのは、気持ち悪さだった。
——私の部屋で、私のお金で、偉そうにして、
その裏で、そんなことを?
ひよりは、息を吐いた。
(……もう無理かもしれない)
いや、無理なのは、優斗じゃない。
“別れた後の自分”を想像できないことだ。
ひよりは、スマホを見た。
優斗からの通知は、ない。
代わりに、別の番号から短いメッセージが来ていた。
〈昨日、あの後、何事もなかったですか?〉
〈もしも、危険を感じるようなことがあれば、すぐに連絡してください〉
——朝倉だ。
ひよりは、画面を見つめたまま、動けなくなった。
“心配してくれる人”がいると、
“心配してくれない人”が際立ってしまう。
ひよりは、返信を打ちかけて、消した。
打ちかけて、消して。
最後に短く打つ。
〈大丈夫です。ありがとうございます〉
送信。
画面が、何事もなかったように元の明るさに戻る。
送信ボタンをタップしたその指は、妙に熱かった。
6
帰宅。
部屋は静かだった。
優斗はいない。
ソファの下の靴下も、スーツもない。
静かなのに、息が詰まる。
ひよりは手を洗い、キッチンに立った。
何か作る気にはならない。
冷蔵庫を開けて、閉めた。
胸の奥がずっと重い。
(私……どうしたいんだろう)
“優斗から離れたい”は、ずっとある。
でも、“離れられない”も、ずっとある。
そして今、そこに
“朝倉に頼りたい”が、混ざり始めている。
ひよりは、深呼吸をひとつ。
夜の部屋は静かで、
静かすぎて、鼓動だけがうるさかった。
(第5話 終わり)




